北中さんが
持ってきてくれた版画を見ていたときのこと。
画面の下にタイトルが書かれ、
マット紙と額に入ったものを見ていると、
確かにこれは版画の作品だ、という印象があるのですが、
どうも画面に向き合うのに余計なものがちらつくような気がして、
しっくりこない感じがありました。
試しにタイトルも額もなしの状態の作品を見せてもらうと、
画面に描かれているものにまっすぐ向き合って、見て、
よりダイレクトに感じることができます・・。
近いところに文字があると
知らず知らずのうちに先にそれを読んでしまい、意味を追ってしまう。
額があるとこれが版画作品だ、という既成概念で見てしまう。
するとそれらが先に意識の中に入ってきて、
絵そのものを見るときの状態とは別のところが動き始めてきます。
北中さんにそう言うと、
ああ、見るときに文字を意味として受け止めないようにして見ないと
邪魔になるかもしれませんね。
僕は見るとき、描くときに
割合そういう意識操作をしているかもしれません、と。
・・勿論、これと逆にタイトルがあることで
作品世界から受け取るものが広がることもあります。
見る側が考えること・想像することと、
作品の表現が合わさって何か見えてくるものがあるような場合。
北中さんの作品は
一見、誰もが見知っているような草花を描いてあるだけに、
何が描かれてあるかをタイトルと合わせて見て確認することで
どこか安心して、もう見たような気になってしまうかもしれません、が
それではもったいない。
そういう先入観を拭ったうえで
画面に描かれてあるものを見ることで
感じられるもの、見えてくるものがあって、それを感じたところで
はじめて作品を見た、出逢った、といえるかもしれません。
北中さんがそのとき見ていたように、
いのちをみる
ところまで味わって、感じてほしいと思います。
一度気が付けば、
額縁などがあっても自分で調整できるのですが・・。
・・・ところで、
こういうものごとへの向き合い方を、
情報社会に生きている現代人は
あらゆるところで、
知らぬうちにしていることが多いように思います。
知っている情報に目の前のものことをあてはめるだけで、
自分で見て、感じて、それから判断することをせずに、
ものごとを結論づけて、行為してしまう、知らぬ間の習慣。
メディアに流れている情報が知らぬ間に入っていて
それが自分を規定する、既定の枠組みになっていること。
そうなっていることにさえ、気づかないくらい知らぬ間に。
共有されている枠組み。
額縁やサインなしの版画を見たときに、
私は自分の中に版画作品という枠組みがあって、
それが知らぬ間にはたらいていたことに気が付いたのですが。
枠組みを外して見たときに見えてくるものは・・・・
どうぞ
ご自分で体験してみてください。