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現場は外部仕上げに向かって進行中。
ラス下地が出来上がって左官の下塗を待ちます。
玄関ポーチに納まる段石の設置について確認中。
玄関内部より見たポーチ。
天井が続いて中と外が貫入しあう場所。
正面の隣家との間は
植栽で直接的な見え方の印象を変えて、
双方の関わりを和らげるようにしようと思います。
内部工事も進んでいます。
2階は天井が終わって、壁の下地を施工中。
手前の方では倉庫が建ちあがっています。
切妻の低く抑えた屋根の倉庫小屋。
母屋との境は外部通路になります。
屋根面に明かりとりを設けています。
母屋の屋根の下に入り込むように納まっています。
出演
プログラム
短歌 3首
J.シベリウス…もみの木
E.グリーク…エロティコン
C.フランク…ヴァイオリン・ソナタ第4楽章
R.シュタイナー…『地水火風の精霊たち』(作曲:藤井喬梓)
J.S.バッハ…2つのヴァイオリンのための協奏曲より
ほか
私たちの習っている鈴木智子先生を含め、
3人のオイリュトミストの方々と朗誦、音楽によるプログラムは
内容が盛り沢山でした。
ユーモラスな演目もあり、壮大なものもあり・・又
光の演出や音楽と言語造形との関連付けや演出もバラエティに富んでいました。
そして、日本語への意識的な取り組みをとても興味深く感じました。
ドイツ語の響きとはある意味、とても対比的で、
言語を介して捉えられ、あらわれてくるものが違うことを
あらためて感じます。その奥へ向かう時にはどうなるのだろう・・?
オイリュトミーの動きから表現されるものによって、
そのようなことをまた更に深く感じている訳ですが、
私たちも同じオイリュトミーをやっているはずなのに、
舞台を見てると何でこんな風に動けるのだろうと思います。
信じ切る心が足りないのかな?とか(笑)。
鈴木先生の動きを見ていると
(師匠なのでどうしても注目してしまうのですが)
いつも体が生まれてきた中心から全ての動きが発生してくるようで、
それが体の隅々から、
さらにその先の空間にまで広がっていくように感じられます。
印象としては
何かに任せ切った末に出てくる動きのような・・。
それはレッスンのときに言われている、
動きが方向を持ってやってくることを感じる、ということ。
それを感じてそこに乗っていく、
に任せ切るということなのかもしれない、
と思いました。
その動きが既にあるのだとすれば、
音楽や言葉の中の流れをどこまで微細に感じて
動きとしてあらわしていけるのか、
ということに焦点が向いていきます・・。
オイリュトミーは表現が先立つというよりは
感知とそのさらなる探求があって成り立っていくもので、
自己の表現、というような枠組みより
さらに深い部分に根差そうとする衝動を
根本的にもつものなのではないだろうか、
とあらためて感じました。
そのことによって
意識がとらえる範囲を
例えば無意識と言われているような領域へ積極的に広げていくような、
そのための訓練となるメソッド、
ともいえるのかもしれません。
そのような部分の存在を
確固としたものとして目の当たり体験しているような
鮮烈な印象の公演でした。