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寒さの戻った朝。

足元を見る。 山は雪。




朝日を浴びて 融けるまで

結晶化した 冷たさが  光っている。


















| - | 17:38 | - | - |
山石
 
前回、見つからなかった石を再び探しに行きます。

紹介された古石がサイズが合わなくて使えなかったため、
山に入ることに。


途中で棚田を見に行きました。





大地と一体となった人の造形の美しさ。
石はほとんど土で埋もれて見えなくなっていますが、
この営々とした人の労作に感動します。
手入れを怠れば、失われてしまうのでしょうが・・。
山から滾々と水が湧いているこの地では、
棚田はその恵みを命養うものとして、最も活かせる形だったのでしょう。



雪の上に虹がかかりました。


石を探しに山へ行きます。

山中の採石場へ辿り着きました。





おや、斜面に手頃な大きさの石が山積みになっています。






仮に積んでみると、
なかなか、使えそうな雰囲気です。
ようやく探していた石に出会えたようです。
今日は旧暦の新年。何だかめでたいですね。

粘板岩の一種だとか。
泥などが堆積して長い年月のうちに圧がかかって出来たもの。
・・ということは、この場所はかつて水の中にあったということですね。
石が携えてくる時間のスパンは一気に、
考古学的なスケールまで意識を導きます・・・。


| 『 O project (桜鹿荘)』 | 18:02 | - | - |
「構築する力」 の前
 
磯崎新さんの『日本の建築遺産12選』を読みました。
「語りなおし日本建築史」 と副題にあるように、
「近代の、つまり西欧起源の、建築手法を学び、実践してきた」磯崎さんの
理解する建築の捉え方によって、日本建築史を見直す本。

12件の建物を選んで
「垂直の構築」と「水平の構築」という二つの流れに
日本建築の特徴を突き詰めて説明してくれます。
(この設定も興味深いですが)
また別の見方からすれば
「壁の欠如」であり、それが伝統的な西洋建築と
もっとも対照的なところだと語ります。

12の作例を通して日本建築について語ります。
さすがに要点が簡潔に纏まっていて面白いです。
しかし見方の中に、
どこかヨーロッパ的な建築からの見方に偏りすぎている窮屈さも感じます。
比較や例えに持ってくるヨーロッパ建築に、
別にこれを持ち出さなくても良さは違うところにあるんじゃないか、
と思う事例も・・。

西洋起源の建築という見方、概念は、
日本の伝統的な建物の中にも発見できるし、
それはある種普遍的な概念なのだ
ということを、事例を通して語っているようです。

それは 「構築する力」 という根源的な意志に辿り着くんだよ、
という冒頭の言葉に結びついていきます。
『建築』という概念は、結局そこの上に成立しているのだ、と。

これは彼のこれまでの設計活動の背景にある思想や姿勢を
ある意味、簡潔に語りなおしているようでもあります。
このように語る視点を見つけていくことによって、
自己の制作を、ある種正当化する、ような・・・。
別の言い方をすれば、
西洋の価値観の中で評価され得るものを
自国の伝統の中に見つけることによって、
自分の作品やその背景がそこと繋がっていることを表明している・・。

このような体験は何も彼に限らず、
多くの日本人(や西洋以外の国の人たち)が
近代以降、意識的にも無意識の間にも、
ずっと体験してきたことかもしれません。
美意識やよしとする価値観において、
生活全般に影響を及ぼしてきたことです。

で、ちょっとその無理さにも
また限界にも、
西洋自身ももう気がついているのが現在。

それを越えていくためには、
基本概念を変える必要があるのではないか・・
『建築』という見方自体も・・。
磯崎さんは建築という言葉を手放しはしませんが、
言外にはそういう気配もちらつかせています(ーような気がします)。
そこから21世紀の新しいものが生まれるかもしれない、ということも
述べているように読めます。


また、別の観点から見れば
『建築』 という固定された見方を利用することによって、
そこに含まれないものが何なのかを見つけることもできるように思います。
・・・うがった見方をすれば、それをあぶりだすために、
建築という観点に拘ってこの本は書かれたのかもしれません。


私がそれによってひとつ見つけたのは、

磯崎さんのいわれる 建築 とは
「人間をつつみこむ自然のうちにあって、
その時代に利用可能なテクノロジーをもちいながら、
目に見える非自然・人工の存在を構築しようとする意志といとなみ」
であるという
『構築する力』 ですが、

その前に存在する意志(や行為)がある、ということ。

物質段階での構築の構想の前にあるもの。
それなくして、構築する力 は生まれてこないのではないでしょうか。
あたりまえのことですが・・。

そして、日本でつくられてきた建物は
まずそこに忠実であろうとしてきたことによって、
ユニークなものに出来上がってきたのではないか、という気がします。
それは意志や行為がそのまま延伸して展開して形になっていくような。
だから自由に変形し、静止的な固定した形に向かわない志向を持つ。

逆に言えば行為さえできれば、
形は特定されないともいえます。

物質になると物理的条件に制約されていくので、
出来上がる形は自然に収斂されていきますが・・・。

構築する力 の前に着目することから、
その後を見直すことで、
新しい考え方が生まれてくるかもしれません。


・・・とそんなことを思いました。



| - | 12:31 | - | - |
国産漆と梨の木のカウンター
 
臼杵さんが作っていた梨の木のカウンターが出来上がってきました。
ごくろうさまです。



なかなかよい雰囲気で仕上がっています。

穴あけ部分は陶器のボウルが納まります。
洗面カウンターになります。



木目もとてもきれいです。
きれいな縞が出ていますね。

梨はあまり出回っていない珍しい材です。
東北では囲炉裏の炉縁の材として使われていたようです。
西洋でも高級家具の材として使われているようです。
日本の梨とは少し種類が違うかもしれませんが。
これは国産の梨です。

国産漆での拭き漆仕上げが
またちょうどよいツヤを出しています。
深みのある印象を生み出していて、木の目をよく活かしています。
国産材には国産漆がやはり合うな〜、
と臼杵さんは言います。

現場に取り付けられた時が楽しみです。


| 『 O project (桜鹿荘)』 | 11:50 | - | - |
『かさじぞう&おはなしのおはなし』 公演を見て
 
和歌山のごとうさんたちが取り組んでいる岩出シュタイナー演劇塾の、
大阪あびこのシュタイナー幼稚園くすのき園での公演を
久美となんちゃん、のりちゃんと見に行きました。
クリスマスの和歌山での公演を経て、二度目の公演。楽しみです。

会場のある我孫子へ行くのは初めてです。
せっかくの機会なので、
路面電車の阪堺電気軌道に乗ることに。
始発の恵比寿の駅は古びてこじんまりとした、
軒の低い片持ち屋根のかかった可愛らしいホーム。
一両編成の車両も長年使い込んできたものらしく、
ペンキを何回も塗り重ねて、
懐かしい上げ下げ窓や扉のデザイン等等とあいまって、
なかなか雰囲気があります。
子供の頃乗っていた電車を思い出します。

通り抜けてゆく街並みは
どこか古さと懐かしさと庶民性の混ざった下町の風情。
途中で住吉大社の大きな石灯籠や太鼓橋、社殿が見えたりして、
初めて乗るものにとっては、
ノスタルジックで、
どこか未知の異界へ入っていくアプローチのような印象。


くすのき園に着くと、
子供達が受付で元気よく迎えてくれました。
和室二間を縁側と布で区切った会場。
簡素ですが寒々しくないのは、
今日の公演の皆さんの熱気のせいか、
日々ここで行われていることがこの場をそうあらしめているのか。
今いる人の数からだけではない、
何かあたたかなもので満ちているような気がしました。


『かさじぞう』。
暗くなった会場に出演者が立ち、
「・・・ざあーっ」という、ごとうさんの第一声が響いた瞬間に、
おはなしの世界の中に引き込まれていました・・・。

一灯の照明が明滅するだけで
舞台装置らしいものも無く、
衣装も何の役かを示すくらいの最小限のもの、
動作も大仰なものではない。
なのに目の前には豊かな情景がありありと見え、
場の状況を一緒に体験しているような気持ちになったのは、
出演者の語る ことば によって、です。

そこには沈黙としてのことばもありました。
雪の中、笠をかぶせてもらう地蔵さまから発せられる無言のことば。

深いところから放たれることばによって、
熱いものがこみあげてくる感動がうまれました。


『かさじぞう』というおはなしを介して、
私たちが感じ、認識できる本質、命の流れのようなものがあって、
出演者の方々は、そこから感じるものを汲み出して、
その流れを滞らせないように、
色々な試行錯誤や創意工夫を経たうえで、
ことば として語っていたような気がします。
きっとそれは感じるほどに深まる、
汲めども尽きぬ泉のようなものなのではないでしょうか。


かつて、太古の人は、
日常使うことばがそのまま現実のものになるという
マジカルな力を持っていたそうですが、
見ていてふとそのことを思い出しました。

たとえ、物質として現前しなくても、
そこから生まれる体験としては変わりないのではないか、
という気さえします。

ことばの力。
そして、それが発せられる前の内面でのおおもとのはたらき。


続いて子供達が演じた
『おはなしのおはなし』も生き生きしたことばと演技が素敵でした。
同じように情景が浮かんできて一緒に体験しているような気分になりましたが、
見ているうちに子供の頃、
誰もがそういう世界に生きていた経験があることを思い出しました。

遊びの中では、ことばにすることによって、
空を飛び、変身し、疾走し、街を造り、海を泳ぎ・・・(笑)、
と、何でもやっていたなあと。

もちろん、半ば夢の中の頃なので今感じている体験とは又少し違うのでしょう。
自由な想像もありましたが、
どちらかというと、真似して演じるという要素の方が強かったようにも思います。
そうやって、この世で生きることを学んでいたのかもしれません・・・。
大人の姿を、大人のつくったものを真似しながら。

この日の子供達が、
一緒に演劇をやっている大人たちの姿や生み出すものに
安心し、深く信頼していることが、その姿を見ていて伝わってきました。

ごとうさんが書いていたように(
このおはなしは演劇塾の大人たちの姿を表現しているものなのでしょう・・・。
最後は人はいつになっても、
大きなものに繋がっていることを思い出させてくれます。
おはなし自体も素敵なものでした。

あたたかなものに満ちた公演で、
見終わってとても豊かで平和な気持ちになりました。

指導されている諏訪先生は、
普通に話されるときも、
深くてとても生き生きとしたものに満ちたことばで話されました。
ことばの力と可能性、その大切さについて語られましたが
そのことを実際に体験するような公演であり、
ご本人もそれを体現されているような方でした。

岩出シュタイナー演劇塾の皆さん、おつかれさまでした。
どうもありがとうございました。


普段、そこまで意識せずに
日常でことばを使っているから、
逆にことばの力と可能性をまざまざと感じることになったのかもしれません。


一般的に私達が物質や、特別な体験や、潤沢なお金がないと
味わえない、出会えないと思っているような満足や幸福も、
(その内容や質にもよるかもしれませんが)
実は内面での体験に集約されていくのならば、
私たちはわざわざそんな回り道をする必要もないのではないか。
一つの方法として、
ことばの可能性をひらいてゆくことで、
より深い体験をすることも私達には可能性として与えられている。
ならば、そこから生まれてくる世界はどんなものになるのだろうか・・。
・・・・後でそんなことにまで想像が膨らみました・・。


| - | 13:40 | - | - |
2012年 新年
 
あけましておめでとうございます。

年明けは大晦日から
何だか落ち着いた日和の穏やかな日が続きました。

昨年、色々なことがありすぎたので
ありがたいことです。



年始は双方の実家の家族が集まって一緒に過します。
無事に集まって何と言うこともなく、
笑いあって過せるありがたさを感じました。


昨年は忙しすぎてゆっくりと家族と過す時間もなかったようです。
今年はこうして、久美と、ボンやバトゥと一緒に過す時間を
持ちたいと思います。





御所はいつ来ても気持ちのいい場所です。
冬の明るい光のもと、澄んだ空気の中、
木々の間、芝の上を歩いて、
彼らも楽しそうです。

揃って初ドッグランも経験したお正月。
とっても楽しかったようです。

年明けから始めたことがあります。
ずっと続けていきたいですね。
どこまでいけるか、楽しみです。

人の可能性を開いていくための実践を
色々と重ねていきたいと思っています。


今年もどうぞよろしくお願いいたします。



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