僕らが今でも古い様式建築に何か惹かれるのは
そこに刻印された夢に共鳴するからだと思う、
と
以前書いた。
当時の人々の共有した夢は
西洋を理想と見て、そこに到達すること、だった。
間近に実際のものを見知ることが出来ないだけに
想像の中で実際以上に膨らんだ部分も沢山あったことだろう。
それまでの時代では託し切れなかった夢や理想が
上乗せされたりしていたこともあったのではないかと思う。
そういう意味で、当時人々の前に姿を現した
様式建築というのは
理想の国、夢の場所の具体的なイメージであり、
姿だったのではないだろうか。
そこから人々は、見知らぬ理想や夢に向けて想いを飛翔させる、
空想の飛行機の発着場のような、夢の国への入口のような役割を
果たしていたのではないかなと想像する。
西洋をどこか理想的に捉えるような気分は
僕らの親世代(70代)くらいまでが
輸入の物を『舶来品』と呼んで、ありがたそうにしていたあたり、
日常の市井の人々の気分の中にも根強く
しっかりと染み渡っていた気がする。
(戦争という反動があったにせよ、だ。)
それほど多くの人たちが程度の差こそあれ
共有していた理想や夢が、当時の建築の中に息づいていて、
そこに僕らは惹かれているのではないかと思う。
その夢が今や有効なものではない、としても。
今はそれに代わるような皆が共有できる夢が見つからない・・。
だからこそ、それを埋め合わせるために、
かつての夢に多くの人が惹かれているのかもしれない。
人は生きていくためには、そんな夢が実は必要なのだと思う。
実用的で実利的な情報がいくら沢山あったとしても、
生きていくための原動力にはならない。
そのような情報はいずれも相対的なもので
その価値はいつ変動するかわからない。
だけど、夢があれば
それは生きていく原動力になる。
何にも比べられない、代え難いものだから。
僕はそういう夢が感じられる『建築』を
造りたいと思う・・。