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街並みと音楽
 夜、大阪の淀屋橋で
仕事の打ち合わせを終えて、
御堂筋の橋の上を歩んでいくとき、
街の灯りを映す
暗い大きな川のゆったりとした流れを身体に感じながら、
高架の阪神高速やビル群のシルエットをバックに
様式建築の日本銀行を眺めつつ、
ヘッドフォンをかけて
フォーレの『レクイエム』を聴くと、
何とも言えない感慨を感じます。



人間の営みの
崇高さや愚かしさや滑稽さや美しさや醜さ・・・
それら全てを包み込んで、なお赦されるような、
そのような慈しみの響きとして
この曲をそのとき、聴いているような気がします。

他の場所ではなかなか
こんな風にこの曲のイメージと街並みが
ぴったりとはこないのですが・・。
流れる位置や形は変えてきてはいるものの、
川という大自然のものがあって、
色々な時代の、
色々な想いで人が造ったものが交錯しつつ、
全体として調和と言う姿には程遠いにせよ、
人が生命の営みをなしている場として
それぞれに息づいている風景。
そこにどこかいとおしさ、のようなものを感じるのかもしれません。

といって、決して客観的に眺めているのではなく
自分もその中で生きている一部として、
この世界の総体としての実在に触れる瞬間。
そのときに内奥から尽きることなく湧き出で、
世界を満たしている愛を知って、
涙するような、そんな感慨なのですが・・。

音楽の力・・・
この街並みの中から
そういうものを印象として感じさせる力を持って、
私達の中の何かを鳴り響かせます。
この街並みもそのときこの音楽と共鳴しています。



最初の音が鳴り響くときに
それをこの風景の中で受け止め、共鳴させるのは
日本銀行大阪支店旧館です。
−1903年(明治36年)に造られたネオルネッサンス様式の建物で
昭和55年から57年に復元改築されたもの。
ちなみにフォーレがこの曲を作ったのもほぼ同時期の1887年頃から。

この建物が核となって、
この音楽が街並みと共鳴するきっかけを作っています。
(曲の構想からするともう少し大きなドーム屋根の建物でも
合いそうな気もしますが・・・)
でも多分、この建物がここになければ
このような体験は味わえなかったでしょうし、
この一角にこのような風景が形造られていたからこそ、のことです。

いつもそのまま北へ向かって歩いていきますが、
最初の余韻を響かせて歩いているようなもので
その後の街並みには残念ながら、そういう場所は見当たりません・・。
(南に向かうと又違うかもしれませんが)
そういえば、Iさんは同じ場所で
朝、バッハを聴きながら通るのが好きだと話されていました。
この辺りには他にも幾つか様式建築が残っていて、
それらにはこんな音楽が共鳴できる部分があるのかもしれません。

今、出来上がっていく街並や建築に
そういう部分と共鳴するようなものが含まれていてほしい、と思います。
様式建築でなければそれが出来ないという訳ではないでしょう・・。
街並みが人の心や思いを受け止めてくれるようなものになれば、
そこで過すときの時間や、
そこから生まれてくる想いやものが
豊かで、美しいものになるように思うからです。
基づくものが刺激やインパクトや経済効率だけではなく。
・・短期的な価値に基づいたものはきっと短命でしょう・・。



| - | 22:46 | - | - |
『借りぐらしのアリエッティ』 を 観て
 昨日、
『所有』 について考えていたら
今日、早速それにまつわる
映画に出遭いました。
『借りぐらしのアリエッティ』。
今更言うまでもない、スタジオジブリの新しい作品!
いやあ、感動して・・・泣きました〜。


人間の家に住み、
そこから必要なものを借りてきて、
自分達の手で必要かつ適切な形に加工して、
暮らしを営む小人達と
人間の出会いのお話。

彼らの暮らしぶりは
慎ましやかで美しい・・・。
謙虚さと美意識が暮らしを形作っているのを感じます。
自分達の生活のあり方を
『借りぐらし』と
認識している意識が
それを生み出す源になっているのでしょう。

借りてくるからこそ、
本当に必要なだけ。
大切に使おうという意識が
調和 に至り、
美しいものを生み出してゆく。

『資源』 と呼んでいる物だって
実は借りてきているものじゃないのかな?
人間が全てを創り出した訳ではないのに、
一見、身の周りにものがあふれてしまうと、
それがどこから来たのか忘れてしまって、
適当に扱ったりしてしまう・・。


『滅びゆく種族』・・とは人間なのか
小人たちなのか、
考えさせられます・・・。

でも、希望に満ちた映画でした。
信じる心を信じていいんだという・・。








 
| - | 20:07 | - | - |
所有ってなんだ?と考える一日
 
今日は朝から敷地境界の立ち会いに出かける。
お施主様と隣地の所有者と境界明示の為の測量事務所、
不動産会社の方数名など。
かなり古い場所なので曖昧。
かつ国有地も挟まっていたり、間を道が通っていたりしてややこしい。
しかしまあ穏やかで友好的な雰囲気の内に終えられて何より。

この辺りは観光客もよく訪れる界隈でもあり、
私有地ではあるが、
お施主様は道沿いのこの辺りを花や山野草でも植えて
通る人に気持ちのよい場所として
開放しようという構想をお持ちでいる。
笑いながら『花の名所になったら面白いな!』と話されるノリが気持ちいい。
さわやかな気分になる。
長い目で見れば、ここがそうなれば
みんなから大切にされる場所になるだろう・・。
一私有地という範疇を越えて
みんなの財産になるとも言える。


帰って来て、
あまりにいい天気なので
思い立ってリラを洗う。久しぶりだし気持ち良さそう。
ゴールデンレトリーバーは毛が長いので、洗った後なかなか乾かない。
一緒にしばらく日向ぼっこをしつつ、毛を乾かす。
吹く風にひらひらと舞い上がる金色の毛を眺めるうちに、
リラが生きていることで
物質がリラの肉体として組織され、
新しい毛も生えてくるんだ,とふと思う。
『生命が 物質を 肉体としてオーガナイズしている』 ということ。
毛と同じように、
全身で細胞が更新されて
肉体が維持されていると言う事実を見れば、
肉体は自分の所有するものとは言えないな、と思う。
一時預かって肉体として使わせてもらっている、
という方が起こっている事実に近いような気がする・・・。

 
NEJIでの『パンの日』に顔をだしてから、
たまの休みの日なので、
気分転換に
読みかけの本を持ってカフェに行く。
そこで保田 與重郎氏の『日本に祈る』の中の
『にひなめ と としごひ』を読んでいると、
「ことよさし」という考えに立つ、古代の日本には
生産物についても土地についても
所有権という思想が無かったという一節に出逢う。
そして又近代以降の支配的な現実思想が、
専ら個人の所有権を中心に展開している、という一節にも。



『個人の所有権』 という設定に基づいて
ものごとを認識し、
生活や社会が編成されるようになったために、
見えなくなったり把握出来なくなった事実も沢山あるだろう。
(勿論逆のこともあるのだろうけど。)
例えば、環境問題の発生する萌芽もそこに含まれていたとも
言えなくもないし、
自分の身体を自分の所有物と認識する見方も
そこから生まれてくる。

そこで起こって来た様々な問題を解決する為には
所有ということの認識をリセットする必要があるのではないか、
そういう時期ーそれもかなり切羽詰まったーに
実は僕たちは立っているのではないかと、思う。


そのような認識に基づいた生き方の
前例がない訳ではない、ということを
この本は教えてくれる。
そしてそれが日本人にはそれほど馴染みの薄いものではない、
ということも。




| - | 19:55 | - | - |
生命の連続性
 
シュタイナー先生は肉体の死後についての記述を残している。
十分に説明できる訳でもないので
詳細はここでは書かない(し書けない)が、
生命の連続性について考えてみると
転生は理に適っているように見える。
心の奥深いところでの納得を感じる。
 (・・・・そういえば、ダライラマ法王は次の転生をどうするか、
  しない場合もあり得ると表明されているらしい・・。)

物質主義に基づく観点から
肉体の死を全ての終わりと捉える、
もしくは
それ以降を未確認で証明できない認識外のこととして
無視するものの見方を、
僕達は人生における一般常識的な態度としていることが多いが、
それでは生命の連続性についての
認識への扉に気づかないままかもしれない。
肉体の死を全ての終わりとする見方に
どこか違和感を感じていたとしても・・・。

見方が変われば他者との関り方も変わってくる。

ドイツでは
重度の肢体麻痺の人達に、
来世の準備のために感覚を働かせる機会を与えようと
積極的に外に連れ出して様々な体験をさせることが
治療のひとつとして普通に行われており、
周囲も普通に受け入れているという話を
聞いたときには感動した。
感覚を使うことが来世の肉体を形作るから、
現世のみで判断するのではなく来世への準備として、
そのような行為を行うこと。
そこには生命の連続性に基づいた見方からの
愛が満ちているように思える。

そのような見方に基づいているから
そのような愛が生まれてくる機会を
持つことが出来る、とも言える。


愛を多く生み出すことの出来る見方に
基づいて生きる方が単純によいと思えるし、
そのような認識に基づいた生き方が生み出す世界が
どのようなものになるのか、見てみたいとも思う。
できればその世界を生きたい。



生命の連続性・・
上記のような時間軸上の連続性もあるし、
空間的な周囲との連続性もあって、
両者はどこかで一体のものとして繋がっている、
様な気がする。



| - | 17:26 | - | - |
ふるいえ

ここ数日のうちに何件かの古家を見ることがあった。
どれもそれぞれに個性があり、
それぞれの魅力があって面白い・・・。


そのうちの一軒は改装のための調査中で
先週から引き続き、連続して実測調査している。



間取りを変えるとなると、
柱と梁の組み方を把握しなければ
どこが抜けてどこが抜けないか、
抜いた後の補強をどうするかなどの検討が出来ない。

座敷からだけ見ていると全く分からないので、
天井裏・屋根裏に入って梁組みを調べることになる。
手分けして、床下も同様の作業をする。

規模も大きく、一見しただけでは
どのように組まれているのかなかなか把握できない・・・。
江戸川乱歩よろしく、
天井裏の積年のホコリの上を這いずり回るうちに、
暗さに目が慣れてくるように
そこの場所にも段々慣れてくる。
最初のうちは家の方も違和感を感じてよそよそしいが、
そのうちに慣れてきて安心するのか
ここ見といてよ、とか
ここ傷んでるんだけど、とか
ここは見せ場だからね、などと
要所要所に目を留めさせるようになる・・・。

おおよそ家の造りがわかってくると
ここをこのように変えればよさそうだ、ということも
見えてくる。
天井裏で梁を眺め、さすりながら
新しい光の下での見え方を想像し、
新しい空間を想像する。

数日間、そうやって調査してようやく、
棟札にあえた。
最初にあちこち探したけれど見つからなかったのは、
どうも造りをよく見てからこい、
という家からのメッセージだったような気がする。
大正6年の建築。棟梁、施主の名前が書かれている。

およそ100年後の改装。
これから眠っていた家の魂を振る、
ということ・・・。








 
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