朝、掃除をしていて
ふと李朝棚に目が止まります。
簡素で丈夫そうで、頼もしげな木の棚。
今そこには、
梅干しを漬けた瓶や
七輪や土鍋、擂り鉢、
味噌壷や乾物等の入った竹籠が置いてあって、
くらしの中にしっかり溶け込んでいます。
どれもしっくりとよく馴染んでいるので、
置いてある姿に安心します。
この棚、もうかれこれ15年くらい前に
ちょっと背伸びして(笑)、購入したものです。
当時は二十代で、まだ若くて
くらしのことなんかよく分らない年齢でしたが、
ともかく李朝のものへの憧れがまずあって、
よく言えば勉強のつもりで買いました。
身近において使ってみたかったのです。
自分の仕事する場所に置きたくて
ずっと本棚として使っていました。
お気に入りの建築の本を並べて。
当時は、美とは何だ、
建築とは何だ、みたいなことを
どこか抽象的に考えたり追ったりしていた
時期だった様な気がします。
芸術や美というものは、
生活感を離れたところから生まれるものだと
どこかで思っていて、
いわゆる日常から離れる為の手段として
不健康な生活をする、
みたいな気分がありました。
周りも先輩もどちらかといえばそういう傾向だったので、
疑いようもなかったのでしょうか。
月日が流れてそういう意識や生活から次第に離れるようになり、
部屋の設えも変わりました。
そんな中で、
この棚を本棚として使うのがどうもしっくり来ないなあ、
という気持ちがあって、
しばらくきちんと使えない状態でした。
ある日、床に置いてあった壷や籠を整理するのに
いい方法を探していて、この棚を思い出しました。
早速並べてみると、馴染んでいい具合です。
よく考えてみれば、
この棚は元々はこういう日常の道具や器類を
片付けるのに作られ、使われていたものなのです。
手元にやって来てから長い時間をかけて、
ようやくその本来の面目に相応しい場所におさまったのでした。
そうして実によい雰囲気を醸し出してくれています。
この棚自身も、ほっと安心してようやく本領発揮、
といったところでしょう。
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僕はずっとこの棚の美しさを
そのものに見ているようなつもりで、実は
李朝というフィルター付き、
もしくはどこかブランド的に見ていたのかもしれません。
そこからは静止した概念や
固定化した価値観しか生まれてきません。
使い方を変えてみて、そのことに気がつきました。
一方で、
くらしというのは
刻々と変化するエネルギーの流れで、
その中で調和をとる、
というのは瞬間瞬間のコール&レスポンスのようなもので
とても動的なものです。
この棚が活き活きと見えるようになったのは、
再びその流れの中に入ったからなのかもしれません。
『瞬間瞬間のコール&レスポンス』という感覚、
別の言い方をすれば、
音楽的と言ってもいいかもしれません。
調和の波に乗るような感覚で
目の前のもの・ことに関っていくような・・・。
肉体を持って生きていることの最大の意味は
そのようにして、
目の前のもの・こと・ひとに直接関ることが出来る、
はたらくことができる、
ということなのかもしれません。
そう見ていけば
くらしの行為 そのもの が 美しい芸術
になるということは、
疑いようのない事実であり、
自明のことだなあと気がつきます。
美や芸術は実は目の前にあるのでした・・・。
誰の目の前にも、です。
・・そのことにまだ名前はついていないのかもしれませんが・・。
僕が李朝を知ったのは、
『民芸』を通して、なのですが
柳宗悦先生達が、
『民芸』と名づけたものの向こう側に
感じ取っていたものは
その生き生きしたエネルギーの流れであり、
それがそのまま形に表れたものに
エネルギーの流れの写しとしての美
を見ていたのかもしれないな、と。
今、この李朝棚を見ていて
そんなことをふと想います。
そうして又
僕の感じ方やものの見方が
層を変えるように変わっていくのを、
この棚は黙って見守りつつ、
そこで待っていてくれたような気もします。
感謝合掌。