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THIS IS IT ・・・三たび


あまりの感動で
 結局、マイケル・ジャクソンのTHIS IS ITを三度見に行った。
当日に二回、最終日前日のレイトショーに一回。

見るたびに感じることは沢山。
どのシーンも見れば見るほど、
マイケルはこの映画を撮るべくして撮っていたのだ、と思う。
言葉にならない予感、
この先に来るべきものをどこかで知っていたのだろう・・と。

忘れ難く好きなシーンは全編に散りばめられているけど、
中でも短いが印象的なシーンがある。
『スリラー』の中で後半、
ダンスしていたマイケルやモンスター達が
一瞬直立して天を仰ぐとき
そのバックで沢山のモンスター達が天から降っていく。

僕はこのシーンを見て
マイケルはモンスター達を成仏させたのだと思った。
モンスターと呼ばれる
無数のおどろおどろしい存在達が浄化されてゆく荘厳なシーン。
マイケルの歌の中のモンスターは象徴。
世界中のモンスター、
心の中のモンスター、
目に見える,目に見えないモンスター達。

この映画には
全編に愛情が満ちあふれているけど
このシーンを生み出した慈しみと愛情は
それまでのこの曲の流れとの対比もあって
一瞬のシーンだが印象に残った。

来るべきものを予感してか、
マイケルは自分の生み出したモンスターをそのままにしておくのが
しのびなかったのかもしれない。
彼らを成仏させたことで
人の生み出したありとあらゆるモンスター達が
浄化される道筋、型がついたのではないだろうか。


なぜなら、
世界は、僕らは一つだから。

そんなことを感じさせてくれた。


ありがとう,マイケル。





| - | 02:19 | - | - |
Michael Jackson's THIS IS IT



愛さんのブログと”キムタカ”のブログをみて、
これはいかなきゃな、
と、何となく感じるものがあり、
久々、多分学生の時以来のマイケルに逢いに映画館に行く。

『スリラー』が世界中で大ヒットしていた時を
リアルタイムで知っているし、僕も勿論夢中で聴いていた。
MTV隆盛の頃で、『ベストヒットUSA』(懐かしい!)の翌日は
それこそ中学校の廊下中に
ムーンウォーカーや沢山のモンスターがいたものだ(可愛いなあ)。
で、僕に取ってのマイケル・ジャクソンという人は
その頃の印象と、
近年はスキャンダルめいたニュースでしか目にしない大スター、
という程度の存在になってしまうところだった・・。

・・この映画を観て、僕は感動して泣いた。
つまらない先入観で本当のマイケルを知らないまま、
過ぎてしまうところだった。ごめんなさい、マイケル。

7月から始まるはずだったツアーのリハーサル風景を納めた映像。
なぜ、その風景が映画になって公開されることになったのか、
観ればわかる。

マイケルは本当に純粋そのもの、
音楽そのものになって生きていた人だったのだ。
彼の音楽も歌もダンスもそこから生まれてくる、
尽きることのない泉。
全生命をかけて、音楽そのものに向かって、光になった。
常にベストを尽くして、謙虚でフレンドリーなマイケル。
その姿に僕らは皆感動する。

ツアーに関わったスタッフやミュージシャン、ダンサー達皆も
きっと同じ気持だったに違いない。映画にしたのはせめてもの、
止むに止まれぬ気持だったのかもしれない。
ツアーは無くなったが、そのおかげで(というほかないが)
この映画が出来て、ツアーを通してよりも多くの世界中の人が
マイケルの伝えたかったことに出逢うことが出来る。

「世界に愛を取り戻そう」とマイケルは言った。
彼が見せてくれるのは、
人間の持つ可能性とそれを信じて、周りとともに進む生き方そのもの。
彼は音楽への愛という形でその姿を見せてくれたけど、
世界中の人には
きっとその人その人に与えられた可能性があるに違いないし、
それを信じてまっすぐ進んでいいんだよ、
と言ってくれているような気がする。
マイケルがステージで歌い、踊っている姿を観るうちに
僕はそういうメッセージを受けとって、泣いてしまったのだ。
みんなそれぞれ違う役割があって、そこでは皆が光り輝いた存在になる。
バンドのメンバーにもマイケルはそう言っていた。
ありがとう、マイケル。ありがとう。

考えてみれば
彼は以前から少しも変わらず、
いつもそういう気持で
メッセージを音楽にのせて送り続けていたのかもしれない。
だけど、僕らはそのあまりにピュアな姿勢に、妬みなのか
信じられなかったのか、理解出来なかったのか
スキャンダルやゴシップでその真の姿から
目を背けていたような気がする。自分の中のそんな面にも気づく。
許してください、マイケル。

でも、この映画でマイケルを観て感動している自分に出会って、
人は自分の中のマイケルに出逢うことが出来る。
誰の中にもある人としての可能性と愛に気がつくことが出来る。
僕らの中のマイケルを、僕らはみんな信じているし、愛しています。
愛しています、マイケル。

最後にこの映画を残してくれて、
ありがとう。ありがとう。
またきっとみんなで逢えるね、マイケル。








| - | 00:30 | - | - |
内から外へ ― 犬とのくらし
最近はリラとボンが夜,
一緒に家で過ごせるように、皆で散歩に行くことにしている。
一緒に散歩したり、過したりすることで
何だかお互いに良い刺激を受けているようで、
日々、どんどん彼らが変化していくのが手に取るように分る。
そうして僕らの 『犬との生活』 も日々、変化していっている。
彼らに色々なことを教えることで、
次々に起こる様々な変化を見ていくことで
僕らも教えられることが、本当に沢山ある。 

リラがいつの間にか、一緒に歩けるようになったこと。
歩いている時に声がけすることで、彼女が安心していられることが
その大きな理由だろうと今は想像出来る。・・・が、
そんなことを知らなかったずっと以前は
とにかく自分たちより前を歩かないようにすることが
重要なんだ、と外からの形ばかりに意識が向いて、
犬がどういう精神状態であれば一緒に歩けるのか、などと
いうことには思いが至らなかった。
で、前に出ないように叱ったり、紐を引っ張ったり、
とにかく外からの形をつくる事ばかりしていたなあ、
と、その散歩の時に、思い出してハッとした。

どんなことでも
内側が整わないと、外の形には現れないのだ。
逆に言えば、外の形ばかり整えても
内側が整わなければ、似て非なるもの、
中身の伴わないものになってしまう。

例えば、ヨガでもアサナの形に囚われていると、
中から伸びていく感覚や
呼吸によって動いていく感覚を見失ってしまって、
ただの筋肉トレーニングに成りかねない。
ヨガに限らず、少し考えてみれば色々なことに
あてはまることに気付く。
きっと誰にでも思い当たることがあるだろう。

今,僕らは何かを判断する時に、
どれほど外の形に囚われていることだろうか。
生活全般が消費主義と物質主義に偏り過ぎたせいか、
外の形 = もの さえあれば
目標が達せられるかの様な勘違いが横行している。
それが勘違いということをも、もう忘れかけているかもしれない。
自分たちの精神や心へも物質を通してしか
アクセスしたり、ケアしたりすることが出来ない癖がついてしまって、
実のところ、それで苦しんでいるようにも思える。

犬と向きあって暮らすことは、
実は、そうした外から形を整えただけの暮らしや
外の形に気を取られた意識を破壊することにも繋がっているかもしれない。
そういう枷があっては、彼らと正面から向き合えないことが
沢山あるからだ。

だけど、そのことで与えられる豊かさや真実もある。
『犬との生活』 は
僕らが現代失った大切な何かを取り戻すきっかけを
与えてくれる、ということを今、日々実感している。

現代人の感覚は随分おかしくなってしまっているけど、
犬達の感覚は基本的には元のままだ。
そう捉えると、
犬は現代人をもう一度正常な感覚に導いてくれるナビゲーターにも
なり得る存在なのだと思える。
彼らを もの と同じように、ペットつまり所有物として
見ていては到底、理解できない感覚かもしれないが・・・。
こんなにおかしくなった人間にも
以前と同じような誠実さや愛情を犬の方は
失わずに付き合ってくれているが、
それもいつまでも持続できるだろうか、とも思う。
命ある存在としての限界もあるだろうからだ。
・・・でもその前に人間の方が壊れてしまうかもしれない。


犬達は
大切な生活の仲間であり、家族だ、
・・・と、思う。
この星で暮らす・・・。

 












| - | 22:59 | - | - |
パンの日、よく晴れた平和な日曜日
 

秋のことを書いていた昨日、
暦の上ではもう『立冬』だったらしい。
ええ、そうなの?暖かだったけどな〜。
今日も引き続き、冬が来たとは思えないよく晴れた暖かい一日。
日に当たっていると、半袖でもよさそうな陽気。
こんな日が日曜だと、なんだか幸せな気持ちになる。
派手ではなく、ささやかだけどかけがえのない
幸せな気持ちがひたひたと
こころに満ちてくるのに任せていたい。

今日はちょうど neji での『パンの日』。
わかなちゃんのアトリエが開放されて、
店の前、北山大宮の路上が、
この日はオープンカフェのようになる。
すっかり恒例のイベントになったようだ。
手作りの愛情いっぱいのパンが集まって、
平和で可愛くて優しくて素敵なひととき、
笑顔で満たされた場所が生まれる。
今日のような日にぴったり。

久々にパンの日に顔を出しにいく。
リラとボンを交代で連れて行った。
なぜだかどちらも商店街を落ち着いて歩けた。
いつもならリラは物音に興奮して大変だし、
ボンもここまでは歩いて来たことがなかったんだけど。
理由は、ボンの散歩トレーニングで
すっかりくせになった散歩中の声がけにあるようだ。
名前を呼びかけながら歩いていると、
犬は安心していいんだという気持ちになるらしい。
・・・考えてみれば人も同じなんだよね。
家族や身近な人から気をかけてもらっているか、
自分もそうしているか・・。


会場は参加者の皆さんがつくりだす
とても楽しくて平和でやさしい雰囲気に満ちていた。
その雰囲気に浸りながら、
オープンカフェでパンとコーヒーを頂き、
おしゃべりしながら、ひとときを過ごす。
どうもありがとうございます。


帰って、母から送られて来た実家に置いてあった
何冊かの本をめくるうちに、
『鉄腕アトム』を見つけた。
何とはなしに読んでみて、
手塚治虫の伝えたかったことはこういうことだったのか、
ということに出会って感動した。
特に「ホット・ドッグ兵団」という話は、
今の自分には涙無しには読めない、犬のお話。


少し仕事もして、
平和なうちに暮れていった日曜日。

今夜からまた家で朝焼くようにパンを作る予定。
この季節、酵母の調子がとてもいいので
夏のお休み以来、復活。


感謝。合掌。














| - | 22:39 | - | - |
にほんのあきの!



福岡のながまつ夫妻から

でっかい きれいな 柿が たくさん届く!


ぴかぴか まるまる もりもりの 秋だな〜〜〜。


美味しく頂いて、ヨガのときにもみんなで頂きました。


どうもありがとう!

一緒に入ってた葉っぱの色も美しいなあ。

日々枯れてきたさまも美しい。


『柿喰えば ぼん! りらも 鳴くなり かみもんぜん』

ははっ、元気になりました!

ありがとう〜〜〜!





(写真はうすきさんのつくった くりの木に
かきしぶ と うるし を塗った テーブルの上の かきとはっぱ。
よく合いますね。 秋にまつわる取り合わせ。)



 
| - | 12:32 | - | - |
成長と教育の関係


ボン、生後5ヶ月。
最近,めっきり可愛くなった。
具体的に言えば、
目が大きくくっきりと、
表情や感情がわかりやすくなり、
顔つきも整って来た、そういう感じ。
可愛いというよりは、
内面の成長が外見に現れてきているという方が
的確なのかもしれない。

大國先生の指導を受けて
この時期に必要なことを夫婦で日々、ボンに教えている。
毎日の散歩でお座りをすることや、待つこと、
えさのときのお預けや伏せ・・・
出来るとほめられるので
ボンも何だか嬉しい気持ちになっているのが
よく分る。

そうやって日々出来ることが増えていくことが
大國先生も言われていた通り、
ボンの自信を作っているようだ。
自信があると、落ち着いていられる。
内面の成長が、
何かを教えられて学習する、
という外からの刺激に促されて、
順調に形成されていっているのが感じられる。
今は吸収も早い。
何かが出来るようになっていくことを
ボン自信も本能的に求めているように見える。

その内面からの成長が
身体や器官を形成していくことにも繋がっているようだ。
刺激を受けて、脳を使うことでその部分が刺激されて
どろどろの状態からしっかりした器官へと発達と成長を促す。
子供への教育と成長について、
シュタイナーが本で述べていたことを思い出す。
内面の成長が外面の成長にも現れる。
この二面は不可分のものなのだ。

年齢や成長に応じた
適切な教育というのがある。
同じことは
人間の子供にも言えることだろう。
子供に好き勝手、自由気ままにさせることは本当の愛情ではない、
ということを
ボンの様子を見ていると実感する。

・・・今の日本の教育はどうなんだろうか?


ボンの成長は周りの変化や成長も促してくれる。
リラや僕らも意識が変わって来たことを感じる。

教育は受ける方ばかりか、
与える方も、その周囲をも成長させてくれるようだ。











| - | 22:11 | - | - |
枷を外す
今朝、 美山町の佐々里峠に今年初の雪が積もったらしい。
冴え冴えの白光を放っていた満月の昨夜、
冷え込みも極まったか、
初雪は例年より一年早いそうだ。
夕べは徹夜で仕事をしていて気がつくと朝になり、
風邪をひいていた。

朝そのまま打ち合わせに出かけたので
自分が風邪だと認識する間もなく、
電車内で鼻水がとまらないことでそれと気付く。
ティッシュをキオスクで買い、
車中、とまらぬ鼻をかみ続ける。
鼻水は面白いように出て来て、まるで滝が流れ落ちるかのようだ。
鼻をかみ続けていると、段々頭もぼんやりしてくる。
これは社会人として正常に仕事をするには不適切な状態である・・。
幸い,熱がないのでまだましだが。

・・中略(2件打ち合わせ。冷や汗ものである・・)

日常の社会生活を営むには不向きなのだが、
このように面白いほど鼻水が流れてくると、
意識も日常とは切り替わらざるを得ず、
そこからこの状態に対して別の見解も出てくる。

止まらぬ鼻水の流れと同時に
日常生活をおくる為にはめられていた枷が外れて、
蓄積していたものが、
どんどん排出されていくかのようにも思える。
意識や思考が次第に日常のパターンから外れていく。
この鼻水はその為に流れているのではないだろうか。
こうやって精神の枷を外すはたらきをしているのだ・・・。
朦朧とした頭でそのようなことを考える。

そうして動き出す意識を通して物事を見ていると、
日常や常識として見ていることが
段々と解体されてゆく。
日頃意味があるとしている行為が、実は全く重要ではないのではないか・・。
それより、意味が無いと思っている様な些細なことが
宇宙の動きには重要であったりするのでは・・といったことが
朦朧体の頭に浮かんでくる。

・・・・・・・・・・
建築は物質の集合体、
と捉えることが一般的だけど果してそうか。
物質に辿り着くのは最後の最後で
視覚的物理的に捉えることが今の一般的な常識的世界観だから
そう認識しているだけではないか。
しかし建築をまず成立させているのは
そこにはたらいた、関った人達の意識や思考,心の集合体ではないのか。
ゲーテは建築を『凍れる音楽』と呼んだが、
この心の集合体は見えない波動として、
何らかの音色や和音を発し続けているのではないか。
ゲーテが音楽と呼んだのはこういう部分だったとしたら、どうだろうか。

建築を訪れる人や使う人は
その見えない音と共鳴するのではないか。
それぞれの人の中のどこか共鳴するところを
印象と呼んで感じているのではないだろうか。

そうすると出来上がった形も重要だが、
それ以上にそのときにはたらいた見えない意識や思考,心の動きの方が
そこには深く刻印されているのではないだろうか。
一度鳴り出した波動としての音は、
見えない空間で鳴り続けている・・・。


もし、そうであるならば、
建築やものといった目に見えるものだけではない、
行為全般を通して働いているこころ が発信している見えない聞こえない音が
とても重要ということになる。

ならば行為の大小や、物理的・社会的意味よりも
どんな音を発しているのか、
それがどんな波動を発しているのか、ということが
最重要になるのではないのか・・。


鼻水が意識の枷を外してくれた頭には
そんなことが浮かんでいた。

月を見上げながら、
雲の波間、自転車を漕いで帰る。
鼻水がこぼれないように。

















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