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循環


”愛の力となるのなら
  さあ、音楽を奏でておくれ”

      ーシェークスピア 十三夜 より

何かが届いたのならそれ以上に嬉しいことはありません。
そしてそれ以上の何かを届けてもらったようです。

どうも有り難うございます。

| - | 03:11 | - | - |
光り


いつも、出来上がりつつある現場で光りの具合を確認する。
射し込む光の美しいとき、
その場でなされる行為も美しくあることが出来るように思う。
美しい光を導きいれたいと思う。

昨日、最近出版された、
装丁の美しいフェルメールの画集を手に入れた。
彼の描いた光はとても美しい。
その光りの中で、人が様々な日常の行為を行っている様子が
描かれている。行為に集中する人。
この静謐さはどこから来るのだろう。
画面の中で日常の行為が崇高なものに見えてくる。
この光のせいだろうか。
ーもしそうならば、このような光に満ちた場をつくれればと思う。

その画集の中で詩人の高橋睦朗さんが
フェルメールの光について
『物の光』という一文を寄せている。
とても興味深い(意外な人物も登場する)内容なので、
ぜひとも原文で読んでいただきたいが、
この文章のおかげで、曖昧だったことが
腑に落ちた。
フェルメールが描いた光は
「対象物の内側から射す光」なのだ。

今日、クリシュナムルティの日記を
何気なく開いて、
その光りについてさらなる理解(又は想像)を促す文章に出会った。
「自由とは、あなたが自分自身にとって光りになることだ。
その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。
現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、
あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。
思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。
この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。」
そしてこの光りのことを、彼は「これが愛だ。」という。
クリシュナムルティの言う愛とは
この宇宙を満たす生命エネルギーそのもの(と理解しているが・・)。

クリシュナムルティが説いたように、
人が真に自由な状態になって内側から放射する光は、
フェルメールが描いたようにきっと目に見える光となって
現れるのだろう。
その光は、太陽から物理的にもたらされ、射しこむ光とも
共鳴するのではないだろうか。
つまり、物理的な光がその行為や意識の状態を導くこともある。

そのとき、人は自分の本質が
光であることに気づくことが出来るのかもしれない。

建築の中に美しい光りを
導きいれたいと言う動機はこの辺りに端を発しているのでは
ないだろうか・・・。


| - | 20:24 | - | - |
一休寺薪能
久美のお母さんに招いて頂いて
京田辺の一休寺薪能を見に行く。
地元の有志の方々が集まって、年に一度開かれている催し。
実は一休は能に所縁が深くて、
薪能という言葉の由来も
この一休寺のある薪村から来ているらしい、ということを
今日まで知らなかった。



一休がその晩年を過ごしたこの寺は
当時,彼を慕って能以外にも連歌師や様々な芸能の人々が集まる
一種のサロンのような場所だったらしい。

こじんまりとしたこの寺は
そうした場所に相応しい落ち着きと美しさを感じるたたずまい。
初めて訪ねたが、かなり気に入った。
山里の地形とうまく呼応しながら造園と建物の配置がなされており、
それぞれの建物がちょうどよい大きさと形で点在していて
見ていてとても心弾む。
無駄なく豊かで美しいとはこういうことか。



一休さんのセンスかな、すごいな、
この自然な感じでちょうどよいところにポンと点を打つ様な具合は・・。
緩やかな登りの参道の感じ、塀や石積みのスケール感や登り勾配も
何とも気持ちいい。
・・写真では撮りきれなかったし全部見てないので,又是非行きたい。



奥の方にちらりと見えているのは
一休が森女と暮らした虎丘庵。
屋根の形が生き生きとした曲線でとても美しい。
この建物は一休が東山から移築して来たものらしい。



この薪能,今年で24回目になるそうだ。
元々はこの庭に舞台を設えて演じていたらしい。
ちょうど中秋のこの季節、舞台に月が美しかった、
と初回から見ているお母さん・・。それもさぞかし良かっただろうと想像する。
何度か公演中に雨に降られた事もあって
今はこの庭を見る方丈の中で演じられる。
それでもめったに見られないくらい近い距離で、
しかもこの建物の中で演じるのを見られるのは、有り難い。

今年の演目は『半蔀』狂言『水掛聟』『土蜘蛛』。
このような建物の中にはやはり和服がよく似合う・・・。
日本の伝統的な身体作法や楽器、謡などが
今の自分にはなんだか沁み入るように心地良い・・。



土蜘蛛も実際に見るのは初めてで楽しんだ。
狂言も面白かった・・。
ざわざわざわざわざわ・・・・。

方丈の奥に祀られる一休さんの木造に
ご挨拶して帰る。何だか田中みんさんに似てるな・・。

本当に見られてよかったです。
どうも有難うございました。


ひさしぶりにお父さんにもあえて
一緒に食事も出来て楽しかった。
お二人ともますます元気にご活躍の様子を伺えて
僕らもうれしいです。
有難うございました。


| - | 23:19 | - | - |


庭に面する掃き出し窓に机を置いて食事をする。
そこで新しい家の構想について話しているうちに、
目の前の光景が変化して新しい窓の形、
窓辺でのくらしの1シーンを導く形が生まれる。
くらしの行為から導かれて生まれた窓の形は、
出来上がったあとは、その行為を導く場所になるだろう。

窓は家の中と外の接点になる場所。
内と外を結ぶ。
光と風を内に導き、
視線や意識や想いを外に繋ぎ、広げる。
家(そこでのくらし)が呼吸するための器官。






| - | 01:13 | - | - |
成就ということ
和歌山の友人N一家の素敵な展開におめでとう!
すばらしい!良かったね!
今日はいい話を聞けてよかった・・。
全てが繋がって廻り始めた、と言っていたそう・・・。
確かに確かにそんな感じ・・。


ふと思う。
ものごとの成就、成立するときには
ぐるりと円が描けるのでは。

日の当たる面、陰になる面、
重い面、軽い面、
長い、短い
良い悪い・・・
相反する様々な要素、
色々な性質が一通り揃ったときに
ものごとは円をなして成就し、
新たな形が生まれてくるのではないだろうか。

新しい事柄が始まるときも然り、
仕事などで契約が成り立つときも然り、
建築が出来上がるときも然り、
野菜が出来上がるときも然り、
人が育つときも然り・・。

その配置は
例えば一人の人の中で時間軸上で揃うこともあれば、
ある物事ならば同時的に、空間軸の中で揃うこともある・・。

円は静止しているのではなく、
円の軌跡を描くエネルギーの流れ。
要素が揃うことで一繋がりになり、
姿を現す円弧。
それがものごとの成就。
そしてまたそれが新たな始まり。

そういうイメージをなんとなく思った。
まーるくまーるく・・・。



| - | 21:36 | - | - |
神様米を見に行く
快晴。第三回菜食促進委員会として、バスに乗り
岐阜に神様米を見に行く。

神様米は上門前の家での去年のイベントの数日後、
床に落ちていた10粒のお米。
米が落ちているのは普通ならありえない状況だが、
このときの一連の出来事からすれば得心が行く。
この米は目に見えないものが存在することを伝える為に
現象化して現れたのだという。
神様米と呼ぶことにした。

お米を分けていただいている山田さんにその米を
託して育てていただいた。
順調に育っているという。


道中、谷汲山華厳寺へ立ち寄る。
西国三十三箇所の三十三番目の札所であり、
1200年前、霊木で作られた本尊の十一面観音自ら指定して
祀られた聖地でもある。







岐阜の友人Mちゃんもここから参加。







巡礼の満願所のせいか、この土地柄か
なんだかおおらかでゆったりとした雰囲気。気持ちがいい。



山門をくぐって本殿までの道の両側に堂が
木立や地形に溶け込みながら点在する。

















これらの建物は
まるで土地の力がそのまま立ち上がって形になったように見えた。
その湧き立つ力はとても好ましい印象で、
木々や堂塔と戯れながら、見えるものと見えないものの間を
自由に行き来しているように感じた。
3次元から人や自然が分かれる以前の状態や力へ。ここは
1200年よりずっとずっと以前から聖地だったに違いない。








谷汲山から山田さんのところへ。
ゆったりと流れる大きな川沿いの道、
見渡す水田と遠くの山々。広々のびのびして気持ちの良い場所だ。
風が吹き抜ける。





山田さん。兼業農家とは思えないほどの規模の水田をされている。
日に焼けた頼もしい姿を見て、神様米を預けてよかったと思う。



6月に蒔いた神様米は一粒を一つのバケツに植えられて育っていた。
あの時、床の上で拾った時のことを思うと何だかジンとした。
ここまで立派に育てていただいて、有難うございます。



一つの種から今では30くらいに分けつ(枝分かれ)して育っている。



このようにたわわに稲穂もつけている。
一粒のお米がこれまでに増えることに感動した。



農家の苦労話などを聞く。
日本の農業政策は生かさず殺さず、
しかし将来へのはっきりした展望もビジョンもないままに
農家に矛盾のしわ寄せをおしつけながら、
こういう人たちのがんばりで何とか成り立っているのではないかという印象。
農家に限らない。林業でも建築でも、食量生産のこともどの業種でも
同じような気がする。



乾燥機。米の水分量を14.5%目標に下げることで、
保存が利くようにする。
16%をこえていると一年でだめになってしまうらしい。



よく手入れされた水田。
あの美味しいはつしもはここから生まれてくる。



豊かな土地は自然の力に人が手をかけることで恵みの場所になる。

色々なことを見聞きした一日になった。
様々なことを感じ、考えた。






| - | 23:19 | - | - |
先日、古い城を見た。
そそりたつ石垣と漆喰塗りの櫓がそびえる。
堂々たる建物。久しぶりにまじまじと見る。
子供の頃、日本の城が大好きで
実物もあちこち見たし、天守閣の絵も沢山描いた。
その頃のように楽しんで見られるかと思って行ってみた。

そこには伝統工法を使って近年復元された壮大な櫓もあり、
材の良さや複雑な仕口に感嘆する。
巨大な梁や柱の架構はいかにも頑丈で、少々のことでは
びくともしなさそうだ。
この仕事が現代に伝統技術を受け継ぐ機会になったことは
素晴らしいと思う。

あちこちに点在する古い建物を見ているうちに
何か感じるものがある。
一見、木造の伝統工法で姿は美しいのだが、
そこに込められたものにはどこか過剰なものがある。
・・過剰に頑強な構えや造りは、戦の為のものなのだ。
肉体がぶつかり合う戦の生々しさが
その構えから滲み出している。
優雅で壮麗な造りではあっても、
実質は戦いの為の建物だ、
ということがひしひしと感じられる。

それを感じて、認識すると
昔のように楽しい気持ちだけではいられなくなった。
命のやり取りの極で生きた武士たちの
精神状態や気構えはやはり平和な世のものとは違っただろう。
彼らが身につけた兜や甲冑を見ていても時々感じる
どこかエキセントリックで過剰な感覚はそういう極の道を
常時ゆかねばならなかった者だけが
ひしひしと味わった感覚なのかもしれない。

が、一ついえるのは
そこにあるのは単なる暴力の肯定だけではない。
その渦中にあって神仏に祈ること、
そこから昇華されたいという切望もそこには含まれている。

武という字は
矛を止める、という組み合わせから成り立っている。
つまり究極には戦わないことを目指している。

城や甲冑に見うけられる
暴力とは対極の優雅さや美しさには
それを願う気持ちが託されていたのかもしれない。


極限下のバランス感覚・・・
・・そんなことを感じた。

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