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第2回 パンの日
2回目の料理教室森田のパンの日。
1回目が盛況だったので、今回はアトリエNEJIに加えて
八百屋ワンドロップの2会場にて開催。
天気予報をまたも覆して晴天の一日。

今回は仕事が忙しくて会場には出向かず、
上門前の家にてひたすら図面を描く。
新築の物販店舗。界隈や訪れる人のことを想像しながら、
場所を空間を、立ち上げていく。紙と鉛筆を使って。
下ではまかない班が打ち上げ用の食事を用意していて(ご苦労様)、
夏の終わりの青い空と家を抜けてゆく風を感じながら、
平和を実感する。
・・・パンの日の会場もきっといい感じだろう。

予定時刻の終わりごろに
思い立って、会場を見に行く。
NEJIは見知った顔も何人かあり、
でもパンもほとんど売り切れて終わりつつある気配。
中に座ってムラマサコーヒーを頂く。
この場所の喜びに満ちた気配は何だろう。
今日ここで多くの人が心から喜んで過していったことが
伝わってくる。
明るくて清々しくて、あたたかい、上昇する感じ・・・
そんなエネルギーが満ち満ちていて驚いた。
それに共鳴しながら、しばし心地よいひとときを過す。
人の行為や気持ち、思いはこのように場所を変性し、
その記憶はその場所にとどまる。
そのことをあらためて実感した。

そしてそれは又その場にいる人に共鳴して、
それが又場に共鳴して・・と循環するようだ。
スタッフも訪れる人も皆良い顔で笑っている。
各々がそれぞれに相応しい役割を自然に見つけて
それを果たしていくことで、
またさらに有機的な繋がり、循環が生まれていく。
どうもこれは生命の発展の道筋のような気がする。
この流れがあるところには、有機的な生命のようなものが
生まれてくるのではないだろうか。
千島学説で説かれている、
赤血球が分化して細胞や臓器に変わっていくように(注)、
人もある方向性のもとでは、個々がそのように役割分担して
もっと大きな生命体のようになる。
それは生命の営みの方向に沿ったものなので、
自然、喜びに満ちたものになる・・・。

役割分担の際にはそれぞれがその場で出来ることを
自然に始める。人それぞれ、気がつくことは違うので
自然に行為も違ったものになり、分担がなされる。
その中で、それぞれの持った特性も活かされるだろう。
これが本来の意味での個性の発揮、
ということなのかもしれない。
自分の中の個性を確立して、それを主張する、
というやり方とは違う。
それでは分裂するだけで有機的なつながりは生まれないだろう。
つまりここで起こっていることは「私」の放棄、ということか。
でもこういう流れの中では
それはごく自然に達成されているようだ・・!


・・・思わずあらぬところまで考えが及んでしまったが、
この日のことから、こんなことを学んだようです。

なんだか、とても新しいものごとへのやり方や取り組み方、
生き方のヒントがあるような気がしますね・・ここには。
第3回目も楽しみ。
皆様、有難うございました。

(注)この赤血球が分化していくさまのイメージは、
なぜか、映画「崖の上のポニョ」の赤い小さい魚がいっぱい泳いでいて
見る見るうちに成長して大きな魚になったりする、
あのイメージです。




| - | 00:23 | - | - |
古いものから教わること
我が家では夫婦ともに
古いものが好きでよく使っている。
巷でも古いものに惹かれる人は多いようだ。
小は器や家具から、古材、大は古民家まで。
近年、その愛好者の数は増えつつあるようだ。
我々も含め、
今多くの人が古いものに惹かれる理由はなんだろうか?


表面的に見れば
経年変化を経たマチエールの美しさ、
とかいうことになるのだろう。

しかしそれだけでは
ある種ブームの様相を呈している今の状況を
説明する理由としては弱いような気がする。

人が惹きつけられる、
現代作られているものになくて
古いものにあるものとは何だろう。

大きく二つあると思う。

一つは
多くの人に愛されてきた、
大切にされてきた、ということ。
(=だから、残っている。)

もう一つは
現代のものと
違う意識に基づいて作られている、
ということ。

例外はあるにせよ
ほぼこの二つに要約できるのではないだろうか。

一つ目は多くの説明をしなくても
分かると思う。
出来上がったものに対して
人がかけた愛情としての様々な手入れや思い入れといった
有形無形の積み重ねを
我々はひしひしと感じることが出来る。

二つ目は
現代のものは
経済至上主義、市場主義に基づいて作られており、
それ以上のものを感じられるものが極端に少ない。
例えば大切に使いたいと思っても、
数年で壊れるように出来ている電化製品など
長持ちしないようになっていたりする。
利益や経済効率に結びつく考えによってものが成立しているのを
身の回りの品々から見つけるのはそれほど難しくない。
日々の暮らしをそういうもので囲まれると、
まるで生活そのものがそういう考えに基づいてしか成立しないような
感覚を覚えるのではないか。
それは生きるということの本質からは離れていて、
狭苦しくて息苦しい世界だ。

古いものは
今と違った時代背景の中でつくられた。
例えば、手仕事でしかものが作れなかったような時代には
労力をかけなければ材料も得られないし、
簡単に沢山のものを作ることも出来ないから、
当然ながら長持ちするように、材料を無駄にしないように
素材の特性を生かすようにさからわないように、ものは作られる。
つまり、
作るという過程の中に、既に愛情が入り込んでいる、
といってもよいのかもしれない。
古いものの中には
そういうものを沢山見つけることが出来る。


ここから学べることは沢山ある。

ものはこころの受け皿のようになっていて
つくられるとき、使われるときのこころをうつしていくということ。
そしてそれは記憶され、
それに出会った者のこころに共鳴する、ということ。

そして実際のところ、
ものはこころが形に投影されたもの
なのだと思う。

こころは
効率とか利益とかで
処理されたり扱われるものではない。


ものづくりとしては
そのことを忘れずにいたい。
ものづくりはこころづくり、
なのかもしれない。


| - | 02:32 | - | - |
所有ということ
今日、上門前の家に雑誌の取材があり、
その中で話しながらあらためて、
所有するということについて考えた。

誰しも日ごろ、自分のもの、ものを所有するということに
特別疑問をさしはさむことはないかもしれないが、
自分のもの、というものは本当のところあるのだろうか?

死ぬときにその人の所有するものは
その人と一緒にゆくだろうか。
所有していても、ものは壊れることもあれば
盗まれることもあるし、
自分の意思とは関係なく、失われることもあるものだ。

冷静に見ればそのものは、
単に自分のそばに一時的にあるだけの話で、
その移動も存在非存在も何ら拘束されていない、と
捉える方がより事実に近い。

所有ということは
実際のところ、一時自分の手元に預かります、という程度のもので
それ以上でも以下でもない。

そう思うと、
ものへの執着や、
所有ということの誤解から生じる苦しみから
逃れられるのではないだろうか。

みんながそう思って、身の回りものに接するとき
もっと意識が自由になるような気がする。
意識をそのように変化させるだけで、
解決される問題も少なからずあるような気がする。



| - | 02:31 | - | - |
上門前ヨガday
この日は一日、朝から夜まで上門前の家でヨガ三昧の一日。
気がつけば延々15時間ばかり、食事時間も含めて、
ヨガに関わる一日と相成りました。
ナオ先生、ご参加いただきました皆さん、有難うございました。

このような時間を皆さんと共有できて、幸せです。
・・全て終わったときにはさすがにふらふらでしたけど。

ヨガを通して個々に訪れる心身の変化と併せて、
個々が集まったときの意識も大きく変化、
成長しているように感じます。
皆で生み出す大きな波のようなもの。
その熱を感じ、共有できることの幸せに
感謝します。

これからどのようにこの場が成長していくのか、
場所や状況の中で、無理のないように
平和な雰囲気や精神が失われないように。
そのこと自体が、もう既にヨガの練習かもしれません。

関わる皆さんと一緒に
ここでの教室やこのような一日を、
ヨガの精神を持って、また創っていきたいと思います。


有難うございました。
| - | 01:34 | - | - |
崖の上のポニョ



もう時間がないんですね!
でも、きっと誰にも乗り越えられるはず。
余計な事をあれこれ考えたり、計算したりしない、
素直な心で向かえば。

そんな勇気や気持ちが湧いてくる泉が
誰の心の中にもある事を思い出させてくれます。
そしてその泉の根っこはひとつながりの
うみになっている・・・。


宮崎監督、ありがとうございました。
説明がなくても、意味はあとから分るのでしょう。
今はただ、受け入れるだけでいいんですね。

映画を通して
素晴らしい贈り物をもらった様な気がします。


ぜひ、観てほしい映画です。

ありがとうございました!

| - | 23:20 | - | - |
体感する家
立秋を迎えたとは言え、まだまだ暑い日が続く。
事務所にしている木造2階建の築80年近い町家は
最近では朝、大体室内気温は28度くらいのことが多い。
湿度は最近なら60%くらいか
もっと低いときもある。
風もよく抜けるので、昼頃に室温31度の表示があっても
体感温度としてはもっと低く感じる。
数字もさることながら、実際この程度の温度なら
クーラー無しでも不快でどうしようもない、ということはない。
昼間などは外から戻ると、本当に涼しく感じるものだ。

最近、打ち合わせでおじゃまするお宅は
鉄筋コンクリート造の6階にある。
外観はコンクリート打ち放しで
なかなかおしゃれな造りになっている・・・のだが、
ここは朝、寝苦しくて目が覚めたときは
大体室温が35度くらいになっているそうだ。
昼間ならともかく、早朝でこの室温ということは
建物の躯体が蓄熱した状態になっていて、
その熱が室内に放熱されているからに違いない。
クーラー無しではちょっとつらい。
建物自体が、
機械による冷暖房の設置を前提として成り立っている造りなのだ。

このお宅はまだ風をなんとか通すことが出来ているからましだが、
最近のマンションの中には
最初から風通しなど全く考慮していない建物も結構ある。
(そんなことは宣伝のチラシには書いていないので、
居住前には気づかないことの方が多いだろう。)
つまり、自然に呼吸しない(できない)建物が家になっているのだ。
かつてなら到底ありえなかったし、誰も発想しなかった家だろう。

見た目のよさも大切だけど、
視覚も含め、五感全てを通して
体で感じると確認できることが沢山ある。
音や皮膚感覚みたいなところで感じること、
又、そこには第六感というのか
なんとなく気になるとか、明るい感じ、暗い感じとかいう
感じということも含まれてくるだろう。
それは実は誰でも感じていると思う。
居心地というのは、心身全体で体感するものだ。


設計の時には
そうしたことを踏まえて
形にしたいと思っている。


| - | 23:25 | - | - |
夏休み


記念撮影。


今年は何を想い、何を感じただろう。

来年も来てくれるかな?









| - | 00:06 | - | - |
森田建築設計事務所 現場レポート 『 B 邸 』改装工事 2


屋根下地まで傷みのあった部分の補修をしている。
もともと半間ほどの出の縁側だったらしき場所に
さらに屋根を継いで部屋を広くする改装を
30年ほど前に行ったらしい。

天井をめくってみると
屋根の野地板を支える垂木のかかりが
二段階に複雑になっていて、
そういう経歴があきらかになった。
以前の屋根からは見えなかった骨組みだ。
下は解体前の様子を写したもの。



そのままの位置で垂木を差し替えても、
あまり意味がない。
施工を手がける櫛谷さんが
今ある垂木の上に勾配を変えて新しい垂木をかけ直しては、
という提案をしてくれた。
この形はお寺や神社等ではよくある方法で、
実際の屋根を載せる垂木と
裏から見えている垂木を別々にかけるやり方で、
そういう架構に慣れ親しんでいる宮大工さんならではの提案だな、と思う。
こういう提案が出てくると面白くなってくる。有難うございます。
(・・上の写真をよく見ると新しい垂木の下に、
古い垂木がかかっているのが見える。)
この方法なら、通気層も確保することができる。
・・そういう観点からも、
このやり方は新築でも使えるかも、と・・思う。

古建築の架構や形には、
現代の中でも十分、
新たな意味や機能をもって必然性のある形で
よみがえらせる事の出来るものが沢山あるような気がする。
現代建築を見ているより
新たな発見が沢山あるように思う。



かなり骨組みがあらわになって来た。
現場の状況に応じて、柔軟に臨機応変に、形を少しずつ変化させ
適応させながら、進んでゆく。









| 森田建築設計事務所 現場レポート 『B邸』改装工事 | 22:21 | - | - |
漆かき
臼杵さんに漆をかく作業の手伝いを頼まれました。

国産漆唯一の産地、
岩手県浄法寺の漆が東照宮の修復で国に買い占められた為、
個人作家や民間にまで出回る量がないそうです。
作品に国産漆を使っている臼杵さんとしては非常事態。
京都近郊の山々をあちこちまわって、
漆の木を見つけ、地主から漆をかく許可を得たそうです。



漆がとれるのは、
よく山に生えている「山漆」や「ぬるで」という種類とは少し違い、
「さと漆」という品種。葉が少し大きく、色も濃い。
山の中の集落等の近くにいくらか残っているとか。
昔は全国にもっとあったようですが、利用されなくなると忘れられ、
伐採されたり放置されたりで、里の人々の記憶からも消えた存在になっています。



今回は北山の集落の側で見つけた場所。
川沿いに数本生えています。
道沿いだが、足場があまり良くないので、
掻く前に草刈りと足場が必要になり、そのお手伝いをします。
朝の山は気持ちいい。暑くなる前にハードな作業を終わらせたいな。



丸太で足場を組む臼杵さん。
川岸でかなり足場が悪い。
浄法寺ではもっと平地に生えていて、数もまとまっているそうです。
漆かきの条件としてはあまり良くはないところですね。



が、試しに木に溝をつけてみると、液はよく出て来ています。
こうして最初に何本か傷をつけることで、これから
漆をかきます、という合図を木にするのだそうです。
傷口を塞ごうという働きを活発にさせるため。
この作業を「初辺(はつへん)」といいます。
漆かきのシーズンは夏場の6月から8月一杯くらいで、
この時期の初辺は少し遅いことになります。



幹に溝をつけるのはこの道具。
このような漆専用の道具を作る職人さんは青森にいるらしいのですが、
今では日本中でその人、唯一人しかいないそうです。
後継者がいないと道具から途絶えてしまいます。
もっとも、浄法寺でも漆をかいているのは
平均年齢70才以上の方ばかりだそうで、このままでは漆をかく技術も
消え去るかもしれません。
国産漆の利用は縄文時代以来の国の伝統技術と言ってもいいのですが・・。



これは、最初に幹の苔や皮をすこしこそげる
「へんずり」という作業に使う道具。
刃に少し反りがある鎌といったところ。



左は先ほどの幹に溝をつける道具。
真ん中はにじみ出て来た漆をかき集める道具。先の方の曲がった部分で
漆を掬い取る。大きな耳かきと思えばイメージは大体あっているでしょうか。
右端はかいた漆を溜める筒。木で出来ていて、なかなか趣のあるもの。
これが臼杵さんの漆かき専用道具一式。



足場が出来て、草刈りも完了したのでいよいよ漆を掻きます。
まずは一番足場の良い場所から。
臼杵さん、漆かきスタイルもなかなか様になってますね〜。



まずは皮をこそげる作業から。



あまりこそげ過ぎても木を傷めるので良くないとか。
案外加減が難しい。昔は「へんずり三年」といって、
最初はこればかりさせられたそうです。



次に幹に溝をつけていきます。



初辺の次に溝をつける作業を「あげやま」といいいます。
3回目以降は名前はないそうです。

初辺でつけた溝は、
大体15センチくらいの間隔で5〜6本になっており、
木の裏表にピッチを半分ずつずらしてつけます。
あげやま以降はこの間に順に溝をつけていきます。

これから10回程度、かくそうです。
晴れていれば3日おき、雨がふると4、5日待ちます。



溝からじんわりと樹液=漆がにじんでくるところ。



これを先の道具を使って、こぞげるように筒に集めます。
う〜ん、あまりにシンプルかつ、原始的な
直裁でひねりのないストレートさに、大いに感動・・・!
漆の一滴は黄金の一滴、といっても過言ではありませんね・・。
この作業は合理化とは無縁のものです。
残念ながら国内で衰退してしまった理由もここにありそうです・・。



一体、この筒を満タンにするにはどれくらいの木を
まわらなければならないのでしょうか。
この作業と本当に見合う金額は経済的な市場原理だけでは
本当はつけられないと思います。
畑で実際に野菜づくりをして感じた、
市場での野菜の安さと通ずるものがあります・・。
これでは後継者もなかなか出てこないでしょう。



















そんなことを思いつつ、
臼杵さんの作業姿を見ていると、
あれこれ理由をつけて手に入らない、とか体制に問題がある、とか言う前に
自分で漆をかきに山に入ってしまう、
臼杵さんのシンプルで直裁な姿勢に
そんなあれこれを軽々と乗り越えてしまうものを見ました。
それは漆かきの行為とためをはるくらい、
ひねりがなくて真っ直ぐな方法です。
少しずつであっても溜まれば、きっとたっぷりとした量、
充分な量になるに違いない・・と信じる姿勢。

やはり「99%の実践に1%の理論」が
肉体をもっている我々の出来る事なのでしょうか。

というわけで、
今日はとても良いものを見せて頂きました。
有難うございました。


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