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聖なる映画作家 カール・ドライヤーをみて
彼の映画の日本最終上映がみなみ会館で今日、
あることを偶然知り、観に行く。

観たのは
『裁かるるジャンヌ』と『奇跡』。

どちらもとても美しい光と構成の映像が
高い精神性で貫かれている。
芸術と言う言葉に値する存在があることを
確認出来てうれしくなる。

『ジャンヌ』の方はまるで
フランチェスコの絵画を見ている様な気がしたし、
『奇跡』は冒頭の家が映るシーンで
この映画が素晴らしいことを確信した。
こんな感覚になる映画は久しぶりだった。

どちらもテーマになっているのは、
神への信仰。
神と直接関わること、
それを人間がその都合と小賢しさでねじ曲げてきたこと、
それによって起こって来た悲劇やあやまち。

後期の『奇跡』の方では
それにダイレクトに疑問を投げかけ、
どうして(シンプルに)
奇跡を信じないのか、祈らないのか、という言葉が
ヨハネスという登場人物の言葉として出てくる。
・・・そして奇跡は起こる。

ここしばらく興味を持っているような事柄にも
深く関わる映画だったので、色々又想いが巡る。

今日、これらの映画に巡り会えたことに感謝しつつ、
そのことによって、
自分の中に植え付けられたであろう種が
どんな芽を出してくるのか、
見守りたい。
・・・・とにかく、本当に感動しました。



| - | 00:18 | - | - |
意志
今日はなんとなく思いついて久美とone dropさんに行き、
そこでcafe milletの樹理さんと邂逅して、
皆で色々話して、一緒に何かを始めることになった。
このあたりのいきさつはの久美の日記を読んでもらうと臨場感があって
イメージが膨らむ。・・何だか、もう決まっていることを進める為に
DVDとかを早回しして先に進めているような感覚の時間だった。


大きな流れを感じる。
その流れは電波のようなもので、
そこに自分のチューニングをあわせれば
自分という画面にはビジョンが映し出される。
それは閃きだったり、行為だったり、ビジョンだったり
人によっても様々なかたちをとるようだ。

チューニングの合わせ方は、どうやら自分の意志らしい。
自分がどのように生きるか、という。
そうすると、それにあったものをキャッチするが、
今流れている大きな流れは『共存共栄』という方向性だ。
それに波長を合わせると流れをキャッチ出来る。
感じ方の強弱や鮮明度に差はあるかもしれない。

この大きな流れは
地球という一つの生命体が起こしていると捉えてもよいかもしれないし、
もっと大きな所から起こっているものかもしれない。
環境破壊や様々な問題で荒れて来たので
地球が生命体として自然治癒力をはたらかせつつある。
人間が自然治癒力をはたらかせて、身体に害を及ぼす細菌を排除するように。

例えば人間の中では70億ある細胞が個々に違った働きをしながら
コミュニケーションを取りつつ、
全体で一つの生命体を形作っている。
そこでは共存共栄がその本来のありかたで、
個々が補いあうから全体が存在し
全体が存在するから個々も存在するという状態で
生命が維持されている。

それに反する存在ががん細胞だ。
これは全体の為に補いあうこともなく、
それだけの為に存在しようとして
結果的にそれが存在している全体の生命も奪ってしまい、
自分の存在も失う。
これは今、地球に対して人間が行っている行為やあり方のように聞こえる。

生命の本来のあり方を取り戻そうとするはたらきが
今起きつつある大きな流れならば、
その方向は当然、共存共栄ということになる。

そこに個々がチューニングを合わせれば、
自ずからどのように生きて行けばよいのかが見えてくるのではないか。
この先、何が映し出されるかはわからない。
だけど個々に与えられた特性によって、
相補いあうようなはたらきをすることが出来るように
生まれついているのではないだろうか。

がん細胞的な利己主義や物質主義に陥らない人間社会のあり方が
生命としての本来のあり方に添ったものであるのならば、
ぜひとも見てみたいものだし、そのように生きてみたいと思う。

いつの日かそこへ繋がって行く始まり。
あのとき、あの場で皆が感じたのは
そんなことだったように思う。

理想社会の成立は歴史的に何度も失敗して来た試みだが、
今度は人為的な発想だけでなく、
自然の大きな流れにのってやるのだから
そこから離れさえしなければ、失敗のしようもないのではないか。
そんな大きな想像も膨らむ・・・。

我々は大きな生命体の中の正常細胞として生きるという意志が
このとき受精したのかもしれない。


| - | 20:00 | - | - |
女三人よれば・・・平和な朝のモーツアルト そのこころは?
うちの事務所1階の土間では週に何度か
料理教室が行われている。
毎回、4〜5名の女性が集まるので、程度の差こそあれ、
それなりににぎやかである。
勿論、説明と質問という教室としてのやりとりもあるが、
それほど堅苦しいものでもない、それ以外の
会話も当然生まれてくる。いわゆる井戸端会議というやつだろう。
『女三人よればかしましい』とはよく言ったものだ。

それまで、
ここを静謐な思考と創造の場というイメージで
設計に取り組んでいたので、
正直な所、この騒音は創造からはるか遠くにあるものだ・・
なんて、思ったりしたこともあった。
で、まあこちらも大きな音で音楽をかけたりして
(普段からも仕事中、時々はそうしているのですが)、
紛らわしたりしていたけど、これはこれで
教室の生徒さんにとっては、マタイ受難曲の鳴る中で
玄米の炊き方を聞くのも、
なんともちぐはぐな気持ちだったに違いない。
そういうときは、こちらもいささか申し訳ない気持ちと、
納まりの悪い後ろめたさのようなものが
残ったものだ。

そういうことを何度か繰り返しているうちに
まったく音をかけないで、教室の話し声を聞くことが何度かあった。
・・この音の響き方ややりとりの感じって、
どこかで聞いたことがあるなあ・・・・、
あ!朝の神社や公園で鳴き交わしている鳥の声だ。
鳥同士のさえずりあいって、丁度こんな感じだな〜と気がついた。

朝、木々の間から聞こえる鳥の鳴き声はとてもいいものだ。
朝の平和で静かな時間、鳥達ものびのびと安心して
鳴いているように思えて、こちらも平和な気分になれる。

その印象に似ている。
そう考えると、
こういう風に女性達が話していられる状態と言うのは
今、ここが平和だからなんだろうな。
暴動や戦争の起こっている国や町で、女性達はこんな風に
話せているだろうか。
今少なくとも、こうして話せる状況が生まれていることの
有り難さと幸せをそのときに感じた。

朝の鳥のさえずりも、
女性達の井戸端会議のさえずりあいも、
平和でなければ有り得ない。
何気ないことだけど、ある意味、平和の象徴の一つかもしれない。

平和と言うのは
『それぞれの存在が、
その本来持っている性質に従って
それぞれの命の発露をのびのびとすることができる状態』
を言うのではないだろうか。


鳥のさえずりに似ているものがもう一つある。
命の喜びがさえずりになって、ころころと転げ回る様が
モーツアルトの音楽から受ける印象とよく似ているのだ。
その音の響きの中にも生きる喜びが満ち満ちていて、
聴いていると元気に明るくなってくる。平和な気持ちを運んでくる。

井戸端会議もそういうものへ繋がっているのだ。
というより、
命の喜びの表れの一つのバリエーションと言う方が相応しいかもしれない。
女性達が生み出す、命の喜びの表現。


と言う訳で、
井戸端会議からモーツアルトまで、お題がつながりました(笑)。
有難うございました。

付けたし。
井戸端会議の話題は罪のないようなのがよろしいようで。
他人様のうわさ話とか、お金の損得の話とか、声をひそめるような話は
どうも不協和音や雑音が入って響きが濁る様な気がしますね、
街で聞いていると。
なるべく明るい笑い声で締めれるようなものが
聞いていても、話していても
気持ちいいんでしょうね、きっと。














| - | 13:34 | - | - |
よきことばー美について

『・・適切な教育施設が全ての人に利用出来ることを前提として言えば、
美を求める心は魂の発達とともに自然に芽生えてくるものです。
価値観が高まれば高まるほど、精神が成長すればするほど、
醜い劣悪な環境に不満を覚えるようになります。
波長が合わなくなるからです。
自分の置かれた環境を美しくしたいと思いはじめたら、
それが進化と成長の兆しと思ってよろしい。
地上界をより美しくしようとする人間の努力は、
魂が成長して行く無意識の表われです。
それは同時に無限の宇宙の創造活動へ寄与していることでもあります。
神は人間にあらゆる材料を提供しています。その多くは未完のままです。
そして地上のすみずみにまで美をもたらす為には、
魂、精神、理性、知性、成長度のすべてを注ぎ込まねばなりません。
 
 最後はかならず個人単位の問題であり、その成長度に帰着します。
開発すればするほど、それだけ内部の神性を発揮させることになり、
それだけいっそう美を求めることになります。私がいつも
霊的知識のもつ道徳的ないし倫理的価値を強調するのはそのためです。
スラム街があってはならないのは、神性を宿すものがそんな不潔な環境に
住まうべきではないからです。飢餓がいけないのは、神性を宿す肉体が
飢えに苦しむようであってはならないからです。全ての悪がいけないのは
それが内部の神性の発現を妨げるからです。
真の美は物資的、精神的、そして霊的の全ての面において
真の調和が行きわたることを意味します。』

シルバー・バーチ


※・・ブログと言えど、少し引用が長かったかもしれません。
読んでいて、今まで疑問だった所が氷解するしていくような感動があったので
つい沢山引用してしまいました。


| - | 01:43 | - | - |
springing
今朝、朝日の中、歩いて
神社に向かう途中に
思い立って
山へ水を汲みに行く。
しばらく行けていなかったので久しぶりのこと。

表側の泉は人が何人かいたので
裏側の方へまわる。
いつもは閉まっている管理の門が
何故か開いていたので、
そのまま林道の中へ進む。

瑞々しい苔で幾重にも覆われて見えなくなった
磐の隙間から
水が湧き出している。
以前より豊富な水量になって、
こんこんと湧き出し流れている。
タンクはすぐにいっぱいになった。
恵みの水、山の神様に感謝。

待っている間、
木々の若葉を見ながら太極拳の練習をした。
静かな時間。しかし、いつもと何かが違う感じ。


今日、何かが始まったと
あとでT先生に教えられた。
そうだったのか、と合点がいった。


泉はこんこんと溢れている。
springing。


| - | 08:53 | - | - |
伝統木構法の家 完成現場案内会
今、I邸の工事を施工してもらっている梓工務店
自社設計施工の伝統木構法の家の完成見学会を行います。
興味のある方は行かれてみてはいかがでしょうか。

4/19(土)20(日)の二日間、
場所は湖西線志賀駅の近くです。

詳しくは
http://www.azusa-k.co.jp/annaikai.html

木と土で出来た伝統木構法の家の居心地のよさは
実際に体験してみるとよくわかります。
逆に普段いる環境がどんなものかを体感的に知るきっかけにもなりますから
なかなか面白い経験かと思います。
梁や柱の木組みも見所です。


ところで伝統木構法と伝統木工法と
同じ読みで違う漢字を使っています。
曖昧に使うことが多いのですが
伝統木構法の方は、
「構える方法」ですから構造的な考え方のこと、つまり、
「伝統的に受け継がれて来た木の特性を活かした構造の考え方」。
伝統木工法のほうは、
つくり方、大工や職人の技術のこと、つまり
「伝統的に受け継がれて来た木の特性を活かした構築物をつくる技術」
ということになります。

つまり、梓工務店は「伝統木構法の家を伝統木工法でつくっている工務店」
ということになります。
I邸は「伝統木構法で設計され、伝統木工法でつくられている家」
ということになります。

| - | 00:36 | - | - |
時代精神
西本願寺でこの3日間、
国宝の飛雲閣、書院などを公開しているので見に行く。
いずれも桃山時代の建築物。


飛雲閣はかつては秀吉の聚楽第にあり、
池の真ん中に建っていて船で出入りしたというが
その方がやはりぴったりする。



今は外からしか見られないが、
この建物の持つ世界はこの庭には納まりきってないな、と感じる。
池は少なくとも今の3倍くらいの広さはほしい。
そういう引きのある位置から見ると
当時思い描いた理想郷がこの建築に投影されている様子が
もっと感じられるような気がする。
本来の魅力を発揮出来るロケーションにないのがちょっと勿体ないな、
などと勝手な想像を思い巡らす。
今も残って見られるだけよかったけど。

書院は中に入ってすぐが
虎の間(だったと思う)という板戸に
迫力ある虎の絵が描かれた
黒々とした板張り床の空間。

創建当時、ここを堂々とした武将達が闊歩していたような
空気感がびりびりと伝わって来た。
諸事に生命をかけて日々を生きる、誇り高き人々。
現代には見あたらない精神が
この空間に刻印されて、その残響が今も響いている。

こういうことはその場所に行かないと感じられない。

そんな調子で書院の中をあちこち見て回って楽しんだ。
襖絵や障壁画の草花や動物など、
本当に活き活きして感性や意識の置きどころが
現代と全く違うのを感じる。
日常、出会うことのない精神に触れて、高揚した。

日本人ならばこう言うものを受け継いでいるはずなのだ。







| - | 23:11 | - | - |
新しい家族


亀のトコトコです。本日命名。

我が家の庭で放し飼いになることになりました。

リラは珍しいおもちゃでも手に入れたかのように大喜び。

においをかいで、後を追い回しています。

私も子供の頃によく亀を池等で取って来て何匹も飼いました。

最初は警戒心が強いのですが、だんだん慣れてくるのが分ります。

なかなかフレンドリーなのです。

私も、久々(?)に童心にかえった感じです。


後日談:
ひょんなことからもとの飼い主の方が見つかり、
トコトコ君、めでたくご帰還。ほんとの名前は『かーめ』でした。
・・元の鞘に収まる為には、思っても無い事態になって
道筋がつくこともあるようです。



| - | 01:53 | - | - |
よきことば
『創造の本質とは常に美に向かって進んでいくことです。

”神は美しく、神は美しいものを愛す”とコーランは言っています。
体の本質は美しくなることです。
知性の本質は美しい思考を持つことです。
心があこがれるのは美しい感情です。

進化が反対の方向に向かうときには、
個人が生まれながらの進化の道を見失ったことを示しています。』


ハズラト・イナーヤト・ハーン
| - | 04:12 | - | - |
存在する理由


うちの愛犬リラは今年で11歳になる、
もうおばあちゃん(?)のゴールデンレトリーバー。
が、散歩の時にも、向こうから来る人が思わず「かわいい!」と、
言ってしまうほど、本当に愛らしい。

今日も家でふと見た時に、
思わず「かわいい!」と言ってしまった。
そういう気持ちが自分の中でむくむくと湧き起こるのを感じた。

その時にふと気がついた。
この感情は、今ここにリラがいなければ
決して湧き起こることの無かったものだ、
ということに。
もしリラがいなくて、
床を見ただけではそんな気持ちは湧き起こらなかっただろう。
愛おしさ慈しみ優しさ、という愛のエネルギーが
リラがいてくれたお陰で
この時の自分の中から生まれて来たのだ。
そしてそのエネルギーは、
確かな存在感のあるものだということも
その時に実感した。
何か暖かい素晴らしいもの、
言いようのない幸福感に満たされていくのを感じた、春の日差しの中。

リラは日頃からそうして周りの人に
愛のエネルギーを湧き起こさせているのかもしれない。
そうならば、彼女はとても素晴らしいはたらきをしていると言える。
最近、リラは時々、とても尊い顔をすることがある。
歳のせいかと思っていたが、
そうして密かな功徳を積んできた故かもしれない。
・・・・いつもありがとう、リラ。



人と犬に限らず、
生き物同士は互いに相手に、
そのようなエネルギーを湧き起こさせるような
関係や交流を持てるのではないだろうか。
というよりは、そちらが本質ではないだろうか。
思い切って踏み込んで言えば、
存在する理由はそこにあるのではないだろうか・・。


そういえば丁度昨夜、Iさんからこんなメールが届いていた。

『先日、犬と対話できる人が言っていたのですが、
動物は言葉で話すのではなくエネルギーで話をするのだそうです。
だから、犬をしつけるとき
「愛情・しつけ・愛情」で教え込むのではなく
「愛情・愛情・愛情」で教える事が大切だ。
なぜなら愛情はエネルギーだからだ。
と言ってました。』

・・不思議な程のタイミングの良さに驚きます。
そして又、とても大切なことを教えて頂きました。
どうもありがとうございました。
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