今日、京都にこの冬はじめて雪が積もった。
いつもの景色が又新鮮に見える。
早朝、リラと散歩に出る。
大徳寺の境内を抜けて今宮神社の方へ歩く。
身近でこんなに美しい建築や環境を毎日見れて有り難い。
建物の古びた木や石や土や漆喰の壁が自然に馴染んだ様子や
組み合わせが目にも心地よい。
現代と違う意識の中でかたちづくられた場所には
清清とした空気が流れ、
意識を現代の日常から解き放ってくれる。
設計するときの意識は、
なるべくそういうところにあるほうがいいので、
この毎日の散歩はとても大切な時間。
今日はそこに雪が積もって、
いつもにも増して明るさと清々しさに溢れている。
今日は10年住んだ家を片付ける日。
残った荷物をまとめて、二人で掃除をする。
黙々と掃除する。色々な思い出もあったはずだが
案外淡々としたものだ。もう自分たちの家ではない感じがした。
この家とのくらしは終わったのだと実感する。
この家のような
奥が吹き抜けの土間になった織家形式の町家には
本来の織の工場という役目が無くなっても、
その空間はとても面白いものだ。
家の中に土足で行き来出来る場所があり、
そこに椅子とテーブルを設えて
それに見合ったボリューム感のある空間で使う生活が可能になる。
和室の延長上にある空間ボリュームや意識では、
椅子・テーブルの生活はバランスが悪いと、
家具のデザインをしていた頃にヨーロッパに行ってつくづく感じた。
日本の伝統的な生活空間の中では民家の土間くらいしか
それに見合いそうな空間を知らなかったが、
町家にもそういう場所があったのだと、ここに出会った時に思った。
吹き抜けの空間では意識も上に伸びていくことができる。
この家に出会う前に住んでいた町家は
数寄屋風のつくりのきれいなものだったが、
同じような天井高の座敷が並列されているだけで
吹き抜けは厨房にしか無く、意識があまり変化しなかったので
この吹き抜け土間は新鮮だった。
家の中で空間のボリュームに様々に変化があることで
意識も伸び縮みすることもこの家に住んでみて実感した。
生活の様々な場面では、その行為の際の意識に添うような
見合った空間の大きさがある。
そして上に伸びる意識は光を求めるということも知った。
この家の土間には天からの光が無かったことに
いつもどこか物足りなさを感じていたような気がする。
小さくても部屋の外に庭の緑が見えることの豊かさも
ここでのくらしで日々学んだことだった。
日当りが悪くて植栽の種類は限られていたが、
それでも季節によって様々な表情を見せて
生活に潤いをもたらしてくれた。
町家の構造形式も面白い。
色々改装させてもらったことで、伝統工法への興味も増した。
・・・書き出してみると書ききれないくらい、
設計のことのみならず、『暮らす』ということについて、
ここで学んだことは沢山あったのだと実感する。
『自分で良いと思えるくらしや生活環境に
建築家は日々身を置いていなければならない』
と生意気なことを言って、住み始めた10年前。
それを作り上げていく過程の中で、
この家はその身を呈して、
建築家志望の若者に色々なことを学ばせてくれたのだ。
(この日も土地と建物について、
その虫食いで傷んだ箇所を見せて教えてくれた。)
ここでの経験と学びが今の日々の設計の中で
様々な形で現れているのを感じる。
この家に心から感謝する。
この家でのくらしは決して快適だったとは言えないことを
引っ越してみて実感した。しかし、文句も言わず(?)に
一緒に居てくれた久美にも感謝している。
・・・快適でなかったおかげで二人とも丈夫になったかもしれないが。
実はそれもこの家の贈り物だったかもしれない。
京都という街の面白さも又あらためて思う。
古い織家は寒いし暮らしづらい、と古くからを知る地元の人たちは言う。
まさにその通りだが、壊されずに残っていたおかげで
自分たちのようなよそものが
全く違う解釈でこの家を見て、新しい住まい方を試みる事ができた。
様々な時代のものが混在して残っている場所なので、
こうした異種の想像力が入り込み、それを育む余地が
この街にはあるのだと思う。
それは成熟した街の豊かさであり、懐の深さなのだろう。
新しい家はこれからしばらくかけて改装する。
予定では夏頃には形にしたいと思っているが。
新しい場所での10年後には何を思うのだろうか。