御所で進行中のまつなが畑さんの作業小舎改装工事、
進行中です。
工事は和歌山の亀井さん。遠路ご苦労様です。
柱を入れ替え、差鴨居を設置しています。
小壁も落ちて少し頼りなげだった構造体が
段々としっかりしてきました。
差鴨居はボルトで両側から締められるようにしています。
下の方は足固めを入れなおして固めていきます。
以前よりはしっかりしたものになるでしょう。
今回は主に構造体を補強し、しっかり直して、
これから長く使っていけるようにするのが主な目的です。
元々、隠居として造られた家のようですが、
今回手を入れられて、野菜の作業をする場になります。
ここを訪ねる人にとっては、
松永さんたちの野菜や畑や暮らしや考え方やお人柄に
直に触れて、出会う場にもなることでしょう。
皆で何かを分かち合う場にもなりそうです。
そのような新しいお役目を得て生まれ変わります。
また先でも色々な変化はあることでしょう。
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考えてみると、家は、長い年月の間には
色々な使われ方をする(可能性がある)わけで、
そこには実は完成形というのは、
無いのかもしれません。
そうしたことが許容される『囲い』であり、
行為をなすための『結構』のようなものが
日本人がずっと造ってきて、
またこころの中にずっと、無意識に持ち続けている家(建物)の
原型なのかもしれない・・・、と最近、とみに思っています。
いわゆる 『建築』 という概念やイメージよりは
もっとずっとゆるやかで、融通無碍なもの。
はじまりは、しめ縄で囲ったある区画、のような・・。
・・『結構』を『けっこう』と読むよりは
『むすび かまえる』と読む方が、
そこで感じる感覚にはあっているかもしれません。
お役目があって必要であれば、
新陳代謝のように部材が入れ替えられて
その『結構』が保たれていくのが、
木で組まれてつくられてきた日本の家(建物)の面白さであり、
その根底には、
先述のような感覚があって、
それは今もなお生き続けているような気がします。
『建築』 とはarchitecture に対する明治の訳語です。
それ以前にその概念にぴったり該当するものは、
正確に言えば日本には無かった、ともいえるのですが、
それはそれでよかったのではないかなあ、と。
この融通無碍さや、
必要なお役目をなす場のための『結構』として形を成していく作用のような方に
目を向けていくと、こうでなければならない、
というところからどこか自由になっていけるような気がします。
その感覚を意識化していくことに、
何かとても新しい可能性が潜んでいるように思えます。
・・言い古されてきたことでもあるのですが、
まだまだ汲み尽くせぬ何かがそこにはあるようです。
古い家を直してくるうちに
そのようなことを教えられてきたような気がしています。
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・・そういえば、
今日から新スタッフの栗橋君も一緒に現場に行きました。
週の半分を設計、
半分をやおや ワンドロップというかたちで働くのですが
松永さんのところはちょうどどちらにも関わりがあるので、
スタートに見るには相応しい現場だったかと思います。
どうだったかな?
がんばれ、期待の新人。