伸び伸びになってしまったが5回目の今回でとりあえず最終回。
実は想定していた本は何冊かあったけど、
最近、身の回りに起こることを見ていて変更。
そこで本の紹介の前に、
蛇足になりそうだけど少しばかり説明を。
このシリーズを通して伝えたかったことの一つに
読書という行為を通じて
「世界を見る目のフレームを広げることが可能」ということがある。
読書によって思いがけない新鮮な世界の捉え方や
無意識にかけていた自分の中の制限に出会うことがある。
中でもいわゆる科学的、とか社会的とかいう枠組みは案外強固で
気づかないうちにかなり自分の中に入り込んでいる。
教育や一般常識ということで生きる過程で
念入りに吹き込まれてきたから仕方ないだろう。
普通に生活して仕事をしていれば、
それらがその為の前提になる(と思いこんでいる)ので
無批判に採用していてもどこかで安心してしまうのだろう。
その傾向はどちらかといえば男性の方が強いのではないだろうか。
それによって、
現実世界は、自然を利用して経済活動や物質の流れを原動力に
人が動かしている、というあたりの見方に
多かれ少なかれ大概の人は落ち着いているように思う。
ところが実はそうではないようだ。(・・という経験をしている・・。)
世界の捉え方として案外真実に近いのは童話やお伽話の中に
出てくるようなものかもしれない、と今では思っている。
そこでは火と人が会話できたり、動物が何かを教えてくれたり
枯れ木に花が咲いたりする。
確かにそれらが単なる荒唐無稽な作り話ならば
ここまで語り継がれてこなかったろう。
そこに何らかの真実があるからこそ、人は惹かれ続けてきたのではないだろうか。
そしてそれはどこか遠くの知らない人のところで起こっていることではなく、
日々自分たちの身の回りで起きていることと言ってもよさそうだ。
ただそれを感知する感性や見方を忘れてしまっている
(又は封印してしまっている)だけのこと。
確かに先に出たような世界観ならば、
日常生活を送るのにそういう見方や感性は必要ない、というより
却って邪魔でさえあるかもしれない。
朝の光の中で道端の花が微笑みかけてくるのに一々答えているようでは
山を切り開いての宅地開発も資源利用も出てこない発想になってしまうだろう。
そこでは経済活動が唯一至上の価値には到底なりえないからだ。
僕らが生きている現代都市は
もともと山や川や野原だった場所を経済効果という一点に価値を絞り込んで
線を引き、建物を造って出来上がった人工環境だから、
それ以外のものが息づく余地がない。
例えば、高層マンションは実際のところ、
経済効率のみで立ち上がっているのだから
そこが人や生命の生きる環境に相応しいかどうかは二の次のことだろう。
逆に言えば、古い町に感じる潤いは
そうではない考えや世界観が街づくりに含まれていた証でもある。
ところで僕たちはそういう現代を覆っている考え方の中でしか
生きる可能性はないのだろうか。
草や木や風や動物たちと心を通わせながら生きられるのは
童話の中だけのことなのだろうか。
世界を見渡せば、実はそうして生きている(生きていた)人たちの例は沢山ある。
今回紹介するのは、その一つでそのことを端的に教えてくれる一冊。
(・・ようやく本の紹介。)
父は空 母は大地―インディアンからの手紙 (単行本)
寮 美千子 (翻訳), 篠崎 正喜 (画) パロル舎
『1854年、アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスは
インディアンたちの土地を買収し
居留地を与えると申し出た。
1855年、インディアンの首長シアトルは
この条約に署名。
これは シアトル首長が大統領に宛てた手紙である。』(本文より)
真実の言葉と美しい世界。
でも僕らが住んでいるのはそういう力が働いている世界なのだ。
現代においてさえも。
現代文明だけが生きる為の選択肢ではない。
大いなる存在との調和のとれた世界での幸せを思うことから、
新しい形が生まれてくるのではないだろうか。
その可能性を僕らは信じていいと思う。
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本を読むことは世界を読み解いていくことに繋がるのだと思います。
読んでいただきどうも有難うございました。
(紫 完くん)